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館長ギャラリー

 令和元年7月12日(金曜日)、県立甲府南高校で出張トークを行いました。1年生約240名の生徒を前に、「日本語のしくみ」と題して講演を行いました。皆さん元気で教室は終始熱気に溢れていました。館長は、生徒一人ひとりに問いかけながら話しを進めていきました。
 最初に、この学校は「スーパーサイエンスハイスクール」の指定校と聞いているが、国語は好きか、文法は何を習ったかなどを尋ねました。



話をする館長の様子(話をする館長の様子)
  

 自分も実は国語より数学の方が好きだった。日本語の文法には「活用形」、「未然形」、「連用形」、「連体形」などあるが、皆さんは解らないときには質問をするか。質問をされると自信のない先生は怖いと感じる。自分が父親に「文節」のことを聞いたら、「文節」は勉強しなくていいと言われ、それ以来、文法のことは勉強しなくなった。

 後に、イラン、アフガニスタンなどの外国に行きたいと思い、日本語の教師になるために勉強した。その時に改めて文法の授業を聞いたら結構面白かった。

 皆さんは、小さい時から日本語をしゃべっているが、なぜそうなるのかと言われると解らないことがある。例えば、「これ」、「それ」、「あれ」の違いはなにか。単純に距離の違いではない。自分の領域、相手の領域、当事者の領域が関係する。こういう理屈を考えるのが文法である。また、「ある」と「いる」の違いを説明する、考えることなどが文法である。

 今では、記憶するという勉強は終わっている。なぜならインターネットがあるから。知識量ではITに負けるが、考えることではまだ勝てる。こういう考えることが能力である。自分であれこれ考えることは面白いが、覚えることは面白くない。

 英語には人称変化があり、日本語にはないと言われているが、実は日本語にもある。例えば「私は信玄餅が食べたいです」と言うが、「あなたor彼は信玄餅が食べたいです」ではなんとなくしっくり来ない。正しく言うには「食べたそうです」などとなる。いつの間にか人称変化をしている。また、「知っていますか」に対して「知っていません」とは言わないで「知りません」が普通の言い方。このあたりが解ってくるとそれこそ専門家になれる。自分の頭の中に答えが入っていて、必死になって頭の中を探してクリアにする、これが文法を勉強、研究する面白さである。

 「イヌ」と「ネコ」はどちらが先か、「右」「左」はどうか。「西、東」というが「東西」とも言う。日本語は謎に満ちている。これを面白いと思う人は日本語教師になってもらいたい。

 日本だけにいると考え方は狭くなる。外国の人と話すと、もっと違う世界があることが分かる。これは日本語教師の楽しさの一つである。せっかく生まれてきたのだから、いろいろな人に会っていろいろなところに行きたいと思う。狭いところにいるとそれだけで満足してしまう。

 日本語だけで考えているとつまらない。日本だけで暮らしていると面白くない。いろいろな生き方がある。悩んでいる時、いろいろな生き方を知っていれば、いい解決策が見つかる。

 自分は、ほとんど高校には行かなかった。朝のホームルームの時だけいて、後は抜け出して本屋に行って本を買い、喫茶店で本を読んで午後3時頃学校に帰ってくる。修学旅行も文化祭にも行かなかった。高校時代の友達は一人もいない。変わり者であることを誇りたい。変人と言われて喜んでいた。そういう風にして暮らしていたので皆さんには、自分の好きなこと、楽しいことを見つけて自分で考えることができるようになってもらいたい。自分で判断できる頭脳を持っているのだから、外から押しつけられ、よく考えずにそれと同じことをしてはいけない。

 例えば、温暖化問題にしても、温暖化することはいいことではないかと思う。温暖化すると穀物がよく穫れるようになるし、海面も2100年に50cm上昇するだけである。議論をしないで唯々反対、二酸化炭素を減らせと言う。いつか騙されてとんでもない戦争をしたように。皆さんには80年も時間があるのだから、答えを考えてもらい未来に希望を持たせてもらいたい。期待している。

 





会場の様子
(会場の様子)
 最後に生徒から質問が出ました。「日本語は一番難しい言語だと言われるがどう思うか。温暖化以外の国際問題で例えば、日本と韓国との関係などはどう思うか。疑うことを習慣づけるメリットがよく分からない。疑っていていいことがあるのかなと思う。」など。 それに対して館長は、「日本語はかなり易しい言語だと思っている。ただ、話すことに関しては易しいが、読んで書くことはすごく難しい。ニュースで報道されていることが本当かどうか、教師が言ったことが本当かどうか考えた方がいい。自分で一度ひっくり返して考える習慣を身につけてもらいたい。すべてについて疑っていると辛くなる。若い時は難しいかもしれないが、経験や年を重ねていくとこれは疑わなくていいんだということがいつか分かるようになる。疑うことをずーっと続けていくことで本物がわかるようになる。」と答えました。
 令和元年7月11日(木曜日)、南アルプス市立白根飯野小学校で出張トークを行いました。保護者の方約120名を前に、「子どもと読書」と題して講演を行いました。聴衆の皆さんは熱心に耳を傾けてくださいました。最初に、県立図書館をPRしました。


話をする館長の様子(話をする館長の様子)
  

 県立図書館は、甲府駅北口から近い所にあり建物はモダンである。空調も効いていて快適で、ビデオなども見ることができる。是非、気軽に来てもらいたい。

 今は時代の変化を感じる時である。この先、従来の変化より大きな変化があるのではないか。まず、平均寿命が延びて90歳位まで生きるようになったこと。子どもたちは、後80年生きなくてはならない。これからは現在とはまったく違う世の中になる。長い期間働かなくてはならなくなるから、長いスパンで考えた方がいい。慌てなくてもいいと子どもたちに教えてあげたい。

 次に、AIである。AIがいろいろな仕事を変えていく。例えば、医者や銀行の仕事のが変わる。中国では、コインやお札を持たなくなっている。すべてスマホなどで決済する。日本ももうすぐそうなる。そうなったら、会社の人員が減ってきて仕事がなくなっていく。 また、英語はあまり勉強する必要がなくなる。そもそも日本人は英会話が苦手である。知らない人とはあまりしゃべりたがらない。今では、自動翻訳機「ポケトーク」やグーグルなどのアプリがある。ほとんど困らない。機械では心が通じないと言う人がいるが、機械の方が賢い。

 日本人は、他人と議論をしたがらない。日本では、会話する場合、お互いのどこが一緒か、同じかを探す。落としどころを見つけるものである。新しい考え方は出てこない。何か違うことを言われると、批判された、文句を言われたと考えてしまう。 学校の授業で「道徳」をやる理由がわからない。良い子を育てるためにやっている。道徳をやる前に哲学をやってもらいたい。なぜ学校、勉強が必要か子どもたちに考えさせればいい。

 自分は小学校2,3年の時、病気で入院していたので学校に行っていない。医者の言うことを良く聞いて治そうとしたがなかなか治らなかった。周りの子は半分くらい死んでいった。努力しても死んでしまった。努力というものはあまり力がない。この経験から努力は無駄であり、諦めることを知った。

 卓球の愛ちゃんは子どもの時から練習していて、怒られても止められなかった。卓球が好きだから止められない。好きなことができる子は成功する。祖父の京助は文化勲章をもらったが、アイヌ語の研究を長いことやっていた。研究をしてご飯を食べてまた机に向かう、この繰り返し。これを努力かというとそうではなく、ただ好きだったということ。ノーベル賞を取った人はそういう人が多い。早い時期に自分の好きなことを見つけた人には敵わない。いわゆる"グリット"である。

 自分は病気だったから外では遊べない。プールにも入れない。だから本ばかり読んでいた。そういう子どもは不幸。読書しかない。健康の方がいい。本ばかり読んでいてもしょうがない。

 子どもを読書好きにさせるには、本を読ませるには、家に本箱の一つか二つくらいがあった方がいい。親が本を読まないと子どもも本を読まない。子どもは親の鏡である。自分は親が読んでいたから読んだ。 読んで面白かったものは、百科事典、時刻表、旅の案内書などであった。小学校の頃はそればっかり読んでいた。行きたいところにどうやって行くのか、電車はどこで降りるのか、どんな食物があるのか、そんなことを一日考えるのが楽しかった。

 親の言葉で子どもは育つが、読書はそれ以外のものだから、いろいろな言葉を知って成長できる。言葉は、会話、コミュニケーションのためだけでなく、自分でものごとを感じたり、考えるために存在する。子どもは語彙数が少ないが、言葉をたくさん知ってくると物事を分析的に言えるようになる。

 作文、小論文の書き方として最初に結論を書く方法があるが、書く意味がまったくない。人の考えを伝えるために書いているのではない。読書感想文などは、自分が何を考えているのかを整理するために書くべきである。書いているうちに自分は何がつまらなかった、良かったか、何に感動したのかなどが分かってきて最後に結論になる。これは、しゃべるとスッキリするという感じと同じである。書くことの意味を考えると、今の国語教育は少し違うことをやっているのではないかと思う。

 これからの子どもは自分できちんと考えて、自分で判断して、自分の言葉で表現できるようになってもらいたい。他人の言ったこと、考えを鵜呑みにしないで自分で考えることが求められる時代になる。例えば、オリンピックに反対してもいいではないか。温暖化を疑ってもいいではないか。さもないと騙されて、先の戦争のようなことになってしまう。言葉をたくさん使って考えていってもらいたい。

 学校で楽しめる本としてお薦めは、絵本のようでやさしく書かれている哲学の本、論語などの古典もいい。古典は生きる知恵を教えてくれる。人間は2千年前と変わらない、全然進歩していないと思う。いくつになっても読める楽しい本である。

 




会場の様子
(会場の様子)
   
 令和元年6月28日(金曜日)、甲斐市立竜王北中学校で館長出張トークを行いました。240名の全校生徒の皆さんに「心に残った読書体験」と題して講演しました。期末テストを終えたばかりの生徒たちは、疲れも見せず楽しそうに聞いていました。
 まず、館長は、テストのこと、勉強のこと、国語は好きかなどと話しかけました。 次に、県立図書館はエアコンが効いていて快適な環境だから、是非来てもらいたいとPRしました。


話をする金田一館長の写真(話をする館長の様子)
  

 自分の祖父の京助と父の春彦は国語辞典を作ったが、国語が得意でない人もいる。自分の娘は国語が苦手で、学校から感想文の宿題が出されたときに「つまらなかった」と書いたら30点だった。娘は自分の考えを書けと言われて書いたのにと怒っていた。

 高い点をもらいたかったら、宿題を出した先生がどう思っているかを書く必要があるわけだが、読んだ本人がつまらなかったら、つまらないと書けばいいと思う。みんな一人ひとり違うことを考えているのだから。自分はいつも先生から「金田一君は変わっているね」と言われ、「ありがとう」と答えていた。自分が自分であるためには変わっていることもいいことである。親の考えていることと自分で考えていることが違ってくるかもしれないが、怖れないでほしい。日本では、先生の言うことには疑問を持たず正しいと考えてしまうが、変だと思ったら聞いてみればいい。外国へ行くと、変だと思ったらなぜそうなのか、みんなよく聞いている。

 英語に関して言うと、いま、自動翻訳機「ポケトーク」が使われている。皆さんが大きくなっている時には、もっと性能が良くなっているはずである。英語の勉強が面白いと思う人は続ければいいし、いやならやめてもいい。英語の先生に怒られてしまうが、英語の勉強はあまり必要なくなる。そういう便利な機器を使い外国の人といっぱいしゃべって交流してほしい。

 本を読むことは、いろいろな人と話をすること。いろいろな人の考え方を知ることができる。自分と違う考え方を知ることで、とてもいい刺激になる。

 自分は、小学校2、3年の頃、病気でずっと病院に居た。ラジオを聞くことと本を読むことしかできなかった。よく読んだ本は、地図帳、時刻表、人名辞典、歴史年表、図鑑類などで圧倒的に楽しかった。そういう本では感想文は書けないが、『星の王子さま』のような物語でも好きな本はあった。『吾輩は猫である』(夏目漱石)と『どくとるマンボウ航海記』(北杜夫)である。後者は、著者が医師として乗船し世界各地を見聞した話である。自分はそういう生き方に影響を受けた。

 みんなが正しいということが本当に正しいことかどうかはわからない。一人ひとりがよく考えることが大切である。

 最近の例を出すと、小さい子が親に虐待されて死んでしまう痛ましい事件があった。児童相談所の対処がまずかったと報道されたが、大きく考えるとたくさんの子供達が助かっていて保護に失敗した一例だけがニュースになってしまう。世の中にいろいろな意見があるなかで、自分自身で考えられることが読書の効用である。そういう意味で本を読んでおいた方がいい。

 最後に、作文の書き方について言うと、上手か下手かではなく、こういう書き方がある。書く前に結論が決まっているのが一般的であるが、面白いか、つまらないか、分からないままに書き出す。それは、書くことで、面白いか、つまらないかが分かるということ。書くことで結論を出す。書けるところから書いていく、考えるために書いていく、そして最後に結論が出てくる。よくがんばって聞いてくれて感謝する。

 






会場の様子の写真
(会場の様子)
 生徒たちから、「先生にとって本はどんなもの。今まで読んだ中で一番よかった本は。生きていく上で読書は必要か。楽しく読むためのアドバイスを。」といった質問が出ました。
  館長は、「本は心、気持ちを豊かに温かくしてくれるもの。働いても心は豊かになるとは限らない。一人でいる状況では本を読まないと貧しい気持ちになる。今まで何冊読んだか分からないが、一番良かった一冊を選ぶことはできない。人により読書が必要な人とそうでない人がいる。お金も同じで、水と食べ物があればいいと思う人がいる。本とか友達、家族がいれば楽しい。仲のいい本好きな友達を作ってお互い刺激し合えば楽しい。」と答えました。
   
 令和元年6月13日(木曜日)、北都留地区学校図書館研究会(大月市民会館)で出張トークを行いました。図書館主任、司書約30名を前に「私の読書体験」と題して講演を行いました。比較的少人数の聴衆に対し、時間内で目一杯話しました。



話をする金田一館長の写真(話をする館長の様子)
  

 図書館はだれも借りたことのない本を所蔵していることが誇りだと思っている。少なくとも、県立図書館は貴重書を所蔵することが務めである。また、設備が充実していて快適で利用者が多い開かれた図書館にしたいと思っている。

 最近、ひきこもりが問題になっているが、自分もひきこもりだった。明日からでもひきこもり自由にゆったりと暮らしたいと思っている。だから、電話は非公開でメールアドレスは最小限知らせるだけ。お客もあまり来てほしくない。そもそも日本には、ひきこもりの伝統があるではないか。鴨長明や吉田兼好などは、世を捨てて暮らしていた。他にも西行や良寛など。

 実は、小学校2,3年の頃、ネフローゼを患って2年間病院のベッドで暮らしていた。薬の副作用で体が浮腫んでなかなか治らなかった。同じ病室にいて治そうと努力していた友達は死んでいった。この闘病経験から努力は無駄だと思うようになった。無駄な努力があることを知った。

 引退したイチロー選手は、好きで野球をやってきたわけで、これを端から見れば努力と映る。努力というより"グリット"というもので、好きなことはやめられないという気持ちがある。私の祖父の京助は、アイヌの研究を毎日毎日していたが、呆れるほどで中毒に近い状態だった。最終的には、そういう人が成功してしまう。

 家には本が腐るほどあった。今、自分の研究室には、読まない本もあり何かの時に読むかもしれない、そういう本もある。

 自分が最も好きだったのが時刻表や地図帳、人名辞典、年表、旅行案内書である。日本で一番偉い人は人名辞典でページ数が一番多い人物だと考えたりして、わくわくしながら読んでいた。

 病院でも本をよく読み、その前からも読んでいて読書量はかなりあった。それで、読書感想文は書けると思っていたが、書けなかった。こういう生徒は国語が嫌いになる。国語が嫌いだった人が国語の先生になればいいし、教科書を作ればいい。

 読書感想文を書くためには、初めから最後まで読まなくてはならない。自由が利かない。時刻表なら見たい路線だけ見られる。あれこれ想像しながら見ると面白い。

 パール・バックの『大地』について書かされたことがある。「苦しい時の神頼み」と書いた。お祈りするが、助かるかどうかは運次第ということである。ところが教師は、「なんて信心深いのか」といった感想を期待していた。教師が考えることを自分も考える子供が国語のできる生徒となる。忖度が張り巡らされている。

 日本では、個々のオリジナルの考えはなかなか認められない。合意形成のルールがあり、例えば、日本女子のカーリングチームで「そだねー」というのは、可愛らしくて好意的でチームワークが良くて評判が良かったが、実は何も考えずに「はい」という返事をしたことと同じである。英語でいう「YES」ではない。相手の気持ちを聞いたという意味に過ぎない。最後に空気があってそれを読むということ。日本人は議論が大嫌いであり、合意できる共通項を探している。落としどころを探している。新しいこと、考えは出て来ない。初めから考えていない。

 一方、外国のチームは、リーダーシップでこうやると決める。恐ろしく独裁的でもある。 日本では、よく「皆さんのお陰」だという。みんなの意見があってそれを言わせるのが日本人の会議。言いたいことがあっても黙っている。何か言うと、「そんなのやめろよ」と言われる。何か言えと言われれば、リーダーが考えているようなことを言う。あまり出過ぎると、尖りすぎると良くない。だから、出るなら少しでなく一杯出ればいい。そうすれば打たれない。

 みんなと同じでなくてはならない、一緒でなくてはいけない。今の日本ではそういうことがかなりある。だから、不登校などは認めない。ひとりだけやらないのは、ずるい、いけないとされる。ところが、今は、とてもではないが真っ当に暮らせるような世の中ではない。便利になって余裕ができたはずなのに、かえって神経がすり減るような状態。"交換"の世の中で、効率、能率、費用対効果が優先される。少ない時間で教えてたくさんの効果を得る。それがいい教育で、そのためにはすぐには役立たない哲学、倫理学などの一般教養は教えず、実践的な教育、役に立つような教育をする。これは、教育の自殺行為である。

 20万年前、ホモサピエンスが誕生し、"贈与"、ギフトで暮らしてきた。お金、経済、資本主義は交換の原理で動くが、もううんざりしているのではないか。教育で役立つ人材をつくることや数値ばかりが大切にされ追求される。

 自分の読書体験を話すと、小学生の頃は、時刻表や地図帳、辞典類、中学生になると、『怪盗ルパン』、『どくとるマンボウ』、『銭形平次』、『007』など、高校では、太宰治や中原中也などが好きだった。

 あと、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』はとてもいい読書案内書である。不条理や実存主義といった、この世の中とどうもうまくいかないと思っている人向けに、カフカ、カミュ、ハイデガー、ドストエフスキー、メルヴィルなどが紹介されていた。自分一人、孤独なんだということを知り、制約を断ち切ってゼロになっていろんな意味で自由になりたいと思いながら読んだ。毎日が大きな読書体験だった。

 マスメディアに出るといいことがあり、それは面白い人に会えること。大岡信氏(詩人、評論家)や谷川俊太郎氏(詩人、翻訳家、絵本作家)にも会えた。谷川氏は今、最も美しい日本語を書く人だと思う。日常的な言葉を使って、洗いざらしの美しい言葉を作り出してしまう。自分の気持ちを裏切らない言葉を使い誠実なことが重要であるとのこと。

 また、『スヌーピー』や『マザーグース』の翻訳をされていて、「翻訳のコツは何ですか、語彙が多いことですか」と聞いたら、「語彙は量ではなく質だと思う」と言われた。

 今、面白いのは俳句である。自分が好きな池田澄子氏(俳人)の句に「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」というのがある。「じゃんけんで負けて人間に生まれたの」とすれば、その程度であるということ、無常である。人間もホタルと変わるところはなく、はかない暮らしをしている。

 坪内稔典氏(俳人)の句に「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ」というのがある。俳句は作る時と読む時と2回作ることができる。読む人は勝手に読むことができる。分かる人は「あっ!」と分かってしまう。自由な文学作品だと思う。読むということは受動態ではなく、クリエイティブなこと、作ること。俳句はそれが一番オープンに開かれているものであり、いろいろな解釈ができ、いろいろなことを思えてしまう。例えば「古池や、蛙飛び込む......」。その時の天気は、時間は、一人でいるかなど。読むことは2度目に作ることなので、子供達は作ってくれた話を私たちに聞かせてくれる。そういう意味で例えば、『ガリバー旅行記』を子供たちに薦めたいと思っている。読んだ時には、絶望的になり怖くて途中で読み進められなくなった。きっとスウィフトは世の中に絶望していたんだなあということがよくわかる。こういう本を大人になって読むと面白いし、子供の時にもちょっと読んでおいた方がもっと面白い。

 面白い童話は結構あるが、わからない童話もある。『星の王子さま』はどこが面白いのかよくわからないが、安富歩氏(経済学者)がどんなにすごい話かを書いている。

 歯応えのあるものを子どもに読ませたい。難しいもの、ちょっとかみ砕いて答えが得られるものを子どもの時に読ませておきたい。わかりやすことは、そんなに大切なことではない。皆さんのお仕事はとても大切。未来を創っていく子供たちにどんなことをしたらいいか責任重大である。まず、自分ですてきな本をたくさん読んでもらいたい。一冊『逝きし世の面影』をお薦めしておく。

 





会場の様子の写真
(会場の様子)
   
 令和元年6月6日(木曜日)、県立韮崎工業高等学校で出張トークを行いました。全校生徒約500名を前に「言葉を学ぶこと」と題して、生徒ひとりひとりに話しかけながら講演しました。生徒達はリラックスして面白そうに話しを聞いていました。
 話の冒頭、館長が生徒達に「最近、何読んだ」と聞きましたが、純真な生徒達は恥ずかしがっていて、なかなか答えが返ってきませんでした。続けて、「英語は好き」と聞きて、恥ずかしがり屋だと英語は上手にならないこと、人見知りせずにどんどんしゃべることを勧めました。そして、話をAIに移し本題に入りました。


話をする金田一館長の写真(話をする館長の様子)
  

 平均寿命が90歳だとしたら、皆さんは16歳位だから、あと74年位生きていくことになる。これから長い人生を生きていく上で今一番考えなくてはならないのは、おそらく、AIという存在になる。これからの世界は、AIでかなり変わっていく。教科書では習わなかったことに対処せざるを得ない場面が生じてくる。

 例えば、医療面では、従来のような役割の医者は要らなくなる。現在の医療は変わっていき、AIが診断を行い、どのようにして治療するかを決定していくようになる。

 また、金融面では、今のような銀行はなくなる。既に中国では、お財布(現金)を持っている人はほとんどいない。屋台でもタクシーでも全部、スマホで済ましてしまう。このように、皆さんのやりたいと思っている仕事は今後なくなるかもしれない。

 「ゴルゴ13」に出てくる"殺し屋"(スナイパー)も要らなくなる。ドローンを使えば簡単に人は殺せてしまう。プログラミングする技術があれば殺せてしまう。だから兵隊は要らなくなる。殺された話はできるが、殺した話は聞かない。人を殺したことは殺した本人を深く傷つけてしまう。老人になってもトラウマで精神病院に入っている元兵隊の人がたくさんいる。そういうつらいことをコンピュータにさせるようになる。

 また、外国語に関しても自動翻訳機が進歩、普及してくるから英語を勉強する必要がなくなる。そうなったら英語の先生は失業してしまう。

  一方、AIには弱点があり、できることには限界がある。ひとつの尺度で物事を判断する、決めることはできるが、最終的に良いか悪いかを判定することが人間だった場合には、AIは勝てない。例えば、囲碁で勝ったり、試験で高得点を取ることはできるが、美しいもの、美味しい料理はAIには作れない。なぜなら、美しいか、美味しいかどうかを決めるのは人間だから。同じように、やさしく看護するといった仕事はAIにはできない。

 今までの文明社会では、コストパフォーマンスを高めることを中心に考えてきたが、そういう時代は終わる。

 中国では、店員がいないコンビニエンスストアが増えている。しかし、自動化されてすごく便利でいいと思うかどうかは疑問である。只々機械的なだけでは面白くない。それだと大量生産の機械の一部品みたいになっていく。直に店員、人と接する方がうれしいということがある。

 人間は"交換の原理"(効率、見返り、損得)だけを考えて生きているわけではない。 リニアができて甲府から東京まで15分で行けるようになっても、節約できた時間だけゆっくりと過ごせるかというとそうではない。本来、便利になる分はゆっくりできなくてはおかしい。もっと、便利さだけでなく、人間の温かみを感じる社会になればいいと思う。

 能率、儲けだけを求める生き方は人間を不幸にする。皆さんが今後生きていく時代では、そうでない生き方ができる可能性がある。

 自分は高校の頃、憂鬱なことばかりだったので、頻繁に学校を抜け出し、ほとんど授業を受けていなかった。大学を出てからも引きこもって本を読んでいた。この中にそういう人がいたら早く大人になってもらいたい。大人になると気持ちが楽になっていろいろなことを楽しめるようになる。いろいろな人がいてもいいし、みんなと同じでなくてもいい。 

  日本では、みんなと一緒になる方がいいと思われているが、みんなと一緒にならなくても構わない。なっていると楽であるが、結局、自分のことは自分で決めなくてはならない。

 本を読むといろいろなことがわかる。こんなことがあるのかとか、こんなやり方があるのかとか、そういうことを本は教えてくれる。

 大量生産されたもののように生きていくことがいやなら、本を読んでいろいろな世界を知ることが大事。井の中の蛙にならないために、外国にいくのもいいことだ。広い世界があることを知ると楽になる。

 好きな事を見つけること、好きな仕事を見つけること、マニアック、中毒みたいなもの、どうしてもやりたいこと、やめろといわれてもやめられない、そういうことを早く見つけること、それが人生の成功のコツだと思う。

 




会場の様子の写真
(会場の様子)
   

 最後には、生徒からいろいろな質問が出ました。「お薦めの本は何か」という質問に対し、館長は「綺麗な日本語を読んでもらいたい。谷川俊太郎、井伏鱒二がいい。何か思い出したら読んでほしい。」と答えました。また、身近なことでは「朝食は何を食べているのか」、他に「彼女はいたのか」、「尊敬する人は」、「果樹農家はAIに勝てるか」、また、「力の正しい使い方」、「死んだら主観はどこに行くのか」といった興味深い質問もありました。

 講演会終了後も積極的に館長に近づき、自分の関心ある事柄に対して意見を聞く生徒もいました。

 館長連続講座「寺子屋ことば学」の第6回講義を行いました。第6回のテーマは、『日本語を作るもの』でした。
 


会場の様子(会場の様子
  

 館長連続講座の初回にも言ったが、大人向けの講演会はどれも90分程度の1回限りのもの。連続して教えるという機会はなかなか無いが、今回の連続講座で得られた。教鞭をとる大学も定年になり、4月からは教授ではなく特任教授となるようだ。大学の先生というと、教えるよりも研究という意味合いが強い。コツコツ積み上げていく研究に長けているのは、身近にいた金田一京助だ。

 グリットは頑張る力、やり抜く力という意味があるようだが、自分としては周りの人に止められても、やめられない力ではないかと思っている。努力や才能というわけではない。人によっては音楽だったり、他のものだったりするかと思う。京助は学生時代に始めたアイヌ語の研究に夢中になった。また当時お金のなかった石川啄木を下宿させ優しくしていた。アイヌ語に対しても、石川啄木に対しても"交換"ではなく"贈与(ギフト)"のようなつもりだったのではないかと思っている。このような人が身近にいるので、研究はそういう人がするものだと思っている。「知るものより好むものが強く、好むものより楽しむものが強い」のではないか。楽しくて楽しくて仕方がないような人でないと研究はできない。自分にはできないと思っていて、研究はやらなかった。

 国語はやりたくないと思っていて、心理学をやった。祖父や父という看板を見ていて自分を見てもらえない。国語は文学ではない。言葉はどういうものかというと、国語より数学、理科に近いもの。作文を書くと自分は「さすがに金田一さんですね」と言われ、兄は「金田一さんなのに」と言われたこともあった。大学卒業後は昼起きてパチンコをして、そのお金で夕飯と本を買って読むという生活を3年くらいしていた。その後、留学しようかと思ったが、日本語教師の道へ進んだ。教えることで楽しんでくれることを知り、教えることの面白さを知った。大学受験は、受験勉強を楽しめたかどうかだと思っている。偏差値ではなく処世に必要な世間知が高い人もいる。勉強する楽しさを知らないのはもったいないので、その一歩となるよう、教鞭をとっている学生には教えたい。教えるのが嫌だと思ったら、さっさとやめようと思う。幸いなことに嫌ではないので続けている。

 教えることはお金"交換"ではなく、"ギフト(贈与)"である。何かをすると効率や費用対効果や、コストパフォーマンスが良いと言うが、"交換"という、ここ2000年くらい続いている考え方とは違うもの。だから"交換"という考え方では、なるべく早く、強くというのが自分たちにとっての進歩だと思ってきた。リニアが通って15分で東京から甲府まで来られるのは便利なのか。いままでは便利という考え方だったが果たしてそうか。その分幸せか、ゆったりできるか、と言ったら大間違いだと思う。いまは1時間30分なのが15分になり、その分1時間15分寝て過ごせるのかといったら、そうではない。15分で来られるのだから15分で帰り、その分仕事ができるのはないかと言われるので、どんどん不幸になるのではないか。

 便利さは交換。短い時間で利益をあげることができる、役に立つ。役に立つことは良いことだという原理で動いている。また数や数値を上げたい、増やしたいというが、もうそのようなことではなく、今後は質を高めることをしていきたい。それが"ギフト"というものだと思っている。僕らは"交換"、"ギフト"の二つの原理で動いている。損得ではない。自分が満足できるかどうか、自己満足の世界。家族や親が子供を育てるのは、"ギフト"。効率や交換の原理を持ちだしてはいけないのではないか。

 教育も効率や役に立つというのが優先されてしまってはいないか。小さい時から英語を役に立つから学ぶのではなく、違う文化があるというのを学ぶためにやるのでは良いかと思う。もっと違う文化を学ぶのであれば英語よりも、もっと近い国の中国語や朝鮮語を学んだ方が良いはずだ。役に立つためではなく、考えたり議論したりするのが楽しくなるような教育なら良いと思う。日本人は考えたり議論したりというのはどうも苦手だ。AがいてBがいて、という時に交換の原理が意識され、Aが勝つかBが勝つかになってしまう(交換)のが、本来はAとBが話し合ってCという新しい意見が出てくるのが議論だと思う。哲学とはみなさないから単に勝ち負けの話になってしまい、"学問"や"ギフト"ということを考えていないという印象がある。いろんな人の話を聞いて自分が少しずつ変わっていくのが学問。いろんな本を読み、考え、いろんな考えがあるのだということ思い、理性を高めていくものではないだろうか。

 




話をする金田一館長の写真
(話をする館長の様子)
   
 2019年3月2日(金曜日)、山梨県地場産業センター(かいてらす)で出張トークを行いました。約280名という大勢の小中学校PTA関係者の皆様方を前に「国語の四技能」と題して、講演を行いました。ユーモアを交えての話に聴衆の皆様方は興味深そうに聞き入っていました。
 





会場の様子(会場の様子
  

  国語(言葉)の四技能であるが、これは、文部科学省が考えたことである。話す、聞く、読む、書くということで役割、機能が4つある。コミュニケーションであり大切なことである。私たちは、普通は言葉で考える。もし、言葉がなかったら考えることができない。考えるという機能はよく解らないので4技能に入っていない。言葉でおいしいと感じたり、考えたりできる。例えば、「刺身」と言うと、おいしいと感じるが、「死んだ魚の生の肉」と言ったら食べる気がしない。

 子どもは内言といって、頭の中で考えたことをそのまま口に出す。ひっきりなしにしゃべる。正直である。この傾向は5歳くらいまであり、以降は、うそがつけるようになる。考えたことと言うことが不一致であっても構わないということを学ぶ。だからうそをつけるようになると成長する。  考えることが言葉の最も大きな働き、機能であり、言葉で理解できて考えることができる。だから、言葉を沢山知っていることが子どもの発達に関して大切である。本を読んで言葉を増やすこと、語彙を増やすことが重要である。

 言葉はすべての科目の基本にある。自分で考え、判断して、表現できる、これが教育の目的である。それができればどんな社会になっても自分の力で生きていけるのではないか。そのためにも、言葉の働きとして、前提として、考えることがある。

 センター試験などで英語のリスニングがあって、日本語のそれがないのはなぜか。聞き取ったことの要約を書かせるくらいのことをしたらどうか。「英国王のスピーチ」という映画の中で、吃音者はスピーチができないから王様になれないという場面がある。話すことができないと王様になる資格がないと考える。また、米国では、スピーチの授業があり、米国人はしゃべること、プレゼンテーションがとても好きである。

 その映画では、訓練して吃音を一生懸命直す。必死になって吃音を直しスピーチをして戦時下の国民を鼓舞した。王様はしゃべれなくてはならない。アジテーションをしなくてはならないから。  日本人は、しゃべるということを大切だと思っていない。教科としての国語では、しゃべることをきちんとできるように、聞いている人に解るように、そういう教育、訓練がされていない。日本の天皇にはしゃべることは求められていない。むしろ、先祖の神様に向かってしゃべる「祝詞」である。一方、英国人の王様は国民に向かってしゃべる。日本の学校では、絵、書道、音楽はやるが、演劇はやらない。しゃべる訓練という意味で演劇をやるべきである。

 日本人は英会話が苦手と言われるが、それは、会話をしないということ。特に初めての人とはあまりしゃべらない。小学校では3,4年くらいから手が挙がらなくなる。外国人を相手に教えていると、学生がしゃべってくれる、発言してくれるから講師はあまりしゃべらなくて済む。日本人相手ではしゃべらなくてはならない。

 今、危ないところに来ていると感じている。今の教育は、社会に役立つ人材をつくることを一番に考えている。ノーベル賞受賞者の大村智先生がおっしゃった。人の役に立とうと思って研究をしたのではない。ただ好きだからやっただけであると。なかにし礼氏も、自分が訊いた時に、苦労はしていないが苦心はしたとおっしゃった。苦労、我慢は要らない。好きなことを一生懸命することが大切であると思う。 私たちはコストパフォーマンスを意識して生きているが、もう行き詰まっている。忙しくなるばっかりである。リニア新幹線ができて便利になっても、その分他の仕事が入ってきて、また忙しくなる。こういうことが永遠に続く。仕事がなくならない。効率、時間を徹底して追い求めた結果、気持ちがすり減っていき不幸せになっていく。

 社会では、効率良く、役に立つといった「交換」の原理が何か至上命令のようになっているが、実はもう破綻しているのではないかと思っている。違う道として損得ではない「贈与」がある。それは、要するに報酬を求めない、只々好きなこと、おもしろいことをやる。こういう形の働き方がある。3,4千年前は好きなことを好きな人がやっていた。2千年前にお金ができてから交換、儲けが意識されるようになった。

 教育にも交換の原理、実学が持ち込まれている。教育の世界は贈与であり、いつかは人間としてきちんと生きていけるようになれることを目指しているはずである。今、年号も変わろうとしている。時代の境目である。

 








会場の様子
(会場の様子)
   
 平成31年2月23日、南アルプス市立中央図書館で館長出張トークを行いました。約80名の地元市民の皆さんに「日本語おもしろ塾」と題して講演しました。笑いの絶えない楽しい講演となりました。
 




話をする金田一館長の写真(話をする館長の様子)
  

 昨日、県立盲学校を訪問し、盲ろう教育のことを勉強させてもらった。昭和29年に目の見えない耳の聞こえない子供に普通の生活をさせてやりたいということで、心理学的、科学的にどうやって言葉を教えたのか、また、どのように様々な訓練をしたのかについてお話しを聞かせてもらい、貴重な資料をみせてもらった。その資料を電子化して県立図書館に残せればと考えている。

 目の見えない人には、とんでもない能力がある。足音で○○先生かが分かる。この前、住宅街で車を運転していた時に、目の見えない杖をついた人が道路を渡ろうとしていたから、「どうぞ」と言ったら、「金田一先生ですか」と返された。どうして声だけで分かるのか驚いた。また、ある人が2年ぶりに目の見えない生徒に会いに行ったら、「先生、2年前と同じ服を着ている」と言われたそうで、それは、匂いで分かったそうである。

 今までは、盲ろうの人が普通の人の世界に入って来られるように訓練、教育しようということであったが、そうではなく、盲ろうの人はその人たちの世界があり、その人たちから私たちが学べることがあるのではないかと思う。音、匂い、味覚、気配などは、私たちより分かるので、もっと、いろいろなことを勉強するようにしてもらいたい。例えば音楽など。津軽三味線の名人である高橋竹山氏、シンガーソングライターの長谷川きよし氏、米国ではスティービー・ワンダーなどがいる。また、東大教授になった福島智氏の例もある。そういう時代にだんだんとさしかかってきているような気がする。

 平成が終わり新しい年号ができる。次の時代に活躍できる若者に年号を考えてもらいたい。「平成」という年号は、字はいいが、音がよくない。「へーせー」と言うと何か疲れた感じがする。逆に「昭和」の「昭」は音は良かったが、字としては難しく使い道がほとんどない。また、みんなが考える年号は、まじめ過ぎで地味なものが多い。個人的には、もっと派手やかな方が好きである。元気が出るような、名前でいうと「きらら」みたいなイメージ。例えば、個人的に言うと「繚花」。「繚」は難しいし画数も多すぎるからだめであるが。

 今は、ワープロがあるから、漢字など覚えなくても足りる。初めて見た知らない言葉でも漢字なら何となく意味が分かってしまう。これが漢字の凄い点である。例えば、「調餌」(水族館で餌を作ること)、「寺主」など。

 「四面楚歌」など、難しい言葉の意味は調べれば分かるが、むしろ、やさしい言葉の方が難しい。例えば、「前」という言葉の意味はいろいろある。「机の前」、「駅の前」、「紀元前」という場合、それぞれ異なった意味あいがある。位置関係、ものが持っている方向性、近いこと、時間の進む方向性など。

 「右」と「左」を説明するにはどうすればいいのか。北を向いたときに東の方向が右という説明がある。これは、国語学者の大槻文彦氏が初めて国語辞典を作ったときに説明したことで、英語のウェブスター辞典を見てそれを採用した。画期的?な説明として、辞典の偶数ページが右で奇数ページが左と決めるというものもある。また、英語に関して、複数と単数を分けないことがある。例えば羊(sheep)、魚(fish)。  こういうことを考えて、分かった時の楽しさ、パズルを解くような楽しさを味わってほしい。新しいことを知識として覚えるだけならつまらない。知識を増やすだけなら大したことではないし、あまり意味がない。既に知識は一杯あるので、自分で新しいことを考えつく人がこれからの世界をちゃんと生きていける人である。県立図書館では、「連続講座」や「作家の講演会」などを開催しているので、聞きにきて勉強してもらいたい。

 







会場の様子の写真
(会場の様子)
   
 館長連続講座「寺子屋ことば学」の第5回講義を行いました。第5回のテーマは、『ふんべつする言葉』でした。
 


話をする館長の様子(話をする館長の様子)
  
 最初に4月1日に発表が予定される新しい元号についての話題に触れながら、新しい時代、平成や昭和などと、時間で"区切る"のは日本人の特徴であり、日本文化であると話しはじめました。芸能人や歌舞伎役者などは、夜でも"おはようございます"と言うが、私たちも夕方から出勤する方などは、"おはようございます"と言わないだろうか。 "おはようございます"は朝のあいさつというよりも、働いている時間と休んでいる時間を分けるもので、朝早くからご苦労様の意味合いがある。 同じように、"いただきます"と"ごちそうさま"も食事の時間を区切っているものであり、あいさつそのものが会っている時間と会っていない時間を分けるものである。また、冒頭で話題にした元号も平成や昭和と名前を付けて区切っていることを指摘しました。
 また"区切る"というのは"あるもの"と"ないもの"を分けることでもあると語り、"スイーツに入るのは何か、どこまで入るのか"といった話や、野菜と果物はどこで分けるのかといったと話題では会場も湧きました。

会場の様子(会場の様子)
 そして、ものの数え方の話題に移ると、以前出演した番組で共演者にドラえもんの数え方を尋ねて困らせたこと、料金などで大人/小人と書くことがあるが、小人の読み方がわからなくても意味が分かればよいものもあること、"親子"と書くより"父娘"と書くことで4通り(父・息子、父・娘、母・息子、母・娘)の中で1つに絞ることができることなどもユーモアを交えて紹介しました。
 最後には言葉はコミュニケーションの道具であるといわれるが、あくまでも特徴の一部でしかなく、分析や"ふんべつ"をすることが、ことばのもつ機能だと話しました。
   
 平成31年2月12日、南アルプス市八田ふれあい情報館で館長出張トークを行いました。約70名の中巨摩地区の小中学校の司書、教諭の皆さんに「本と言葉」と題して講演しました。落ち着いた、ゆったりとした雰囲気の中で話しました。
 まず、自分の就学期の頃の話から始めました。
 



話をする金田一館長の写真(話をする館長の様子)
  

 自分の家は、いわゆる学者の家だったので暮らしぶりは派手ではないが、本だけは好きに買うことを許されていた。小学校2、3年生の時、大病を患い入院をしていた。その時期にいろいろな本を沢山読んでいた。一番好きな本は、地図帳、時刻表、歴史年表で調べるための本、想像力が広がる、そういう類の本であった。一方で、物語的な本は面白く思わなかった。

 時代が移りインターネットが出現し、本の役割が変わってきた。昔の図書館に自分が求めていたものは、今やほとんどインターネットの中にあると思う。しかし、便利な部分と危なっかしい部分がある。例えば、自分のことが載っているウィキペディアに間違いがあっても自分で直せない。子供はインターネットを見て、そういう間違い、うそを信じてしまう。

 子供や学生に知識を与えたり、増やしたりするというより、考えられるようにすることが自分たちのすべきことである。知識はインターネットにあるので、漢字、書き順なんて知らなくてもいい。与えられたことを覚えることが勉強だと思っているから、あるもの、あるものをそのまま信じてしまう。否定する考え、賢さを、これからの人は持っていてほしい。

  あるものをどう組み合わせていくか、どう使っていくか、そういうリテラシー、道筋を与えていくことが重要である。そういうところの入り口に司書、教諭の仕事がある。

 今、故鶴見俊輔氏の著書を読んでいる。氏の本の中に、言葉をお守りのように使う人のことが書かれている。例えば、「民主主義」、「国益」、「温暖化」等。本当はどういう意味かよく解っていないのに、その言葉でみんなを黙らせてしまう。そういう使い方がある。議論をしないで誰かが言うと簡単に信じてしまう。「温暖化」にしても、地域により事情や考え方も違ってくる。短絡的に悪い、反対とすることが正しいとは限らない。まず、初めに議論をしてもらいたい。

 そういうふうにして失敗したのが、もう70年も前になるが、戦争をしたあの時であり、大きな間違いの始まりであった。強い言葉によって洗脳されている。思考停止に陥っていて、考えないで受け入れている。

 また、「少子化」について言うと、個人的には、7千万人位の人口が良いのでは思っている。 日本がどうしてこんなに貧しく年金が少なくてどうしようもないのかと言えば、要するに人口が多すぎるからである。減少している時、過渡期は大変だが落ち着いたらとてもいい国になるはずである。

 そして、ややもすると、昨年より数が多くないとだめだと考える人達がいる。「成長戦略(神話)」という常識であり、毎年毎年多くならないといけない。そういう考え方にとらわれる必要はない、もうやめたい。数ではなく質を高めることが大切である。図書館でも、実績を非常に気にするが、数が少なくなったらそれはそれでいいではないか。そういうのもお守り的用法のひとつである。

 変に考えなしに受け入れる信仰みたいなものが世の中にいっぱいある。素直な人の頭の中には常識、世間がある。そういうものは、一旦疑い、取っ払った方がいい。風通しのいい世界が見えてくる。子供達にとって、とても良いことである。

 だれを信じたらいいか判らない。うそを言う人はいっぱいいる。でも、ちゃんとしたことを言う人はいる。その人の本を読んでそのガイドに則っていくと、まあまあいける。

 本は連続している。一冊読むとそこに書かれていたことの次を読みたくなり、どんどん繋がっていく。これ一冊で終わりという本はない。そうして繋がっていくいいルートを早く見つけてもらいたい。これを子供達に伝えることが皆さんの役割であると思う。この人なら信用できるがこの人は信用できないということがある。そういう指針、矢印になってくれるものを早く見つけることが大事である。

 若い時は、"本物"がなかなか判らない。早い時期に本物を見つけてもらいたい。中国の古典、アリストテレス、カント、デカルトなど、案外面白かったりする。

 本を読むことは、新しい本を作ること、新しいことを発見することであり、受け身ではなくクリエイティブなことである。例えば、3人が同じ本を読んでも人それぞれであり、Aさんのデカルト、Bさんのデカルト、Cさんのデカルトといった3冊の本が出来上がる。また、同じ本を違う時期に読むと印象が変わり違った感慨がある。いい本は、沢山バリエーションができてくる。自分なりの「トルストイ」、「ドストエフスキー」等々を読む。そういうことである。

 いろいろな理由で小学校、中学校に通えない子供達がいる。勉強しないのはもったいない。図書館はそういう子供達のもの。自分も高校時代は、図書館ばかり行っていて、そこでほっとしていた。日本の社会は、ひとつの型に当てはめて工場の大量生産のように同じ顔の子供を造っている。学校などのしくみの中に入り込むのがいやだという子供達がいる。彼らに居場所を与えてやる、避難場所(アジール)を確保してやる必要がある。

 大人になると"ナンセンス"を楽しめるが、子供はまじめでなくてはいけないと思い込まされている。自分も思い込まされていたような気がする。今、思うと洗脳の度合いに腹が立つ。そういう意味では、むしろ、子供の方が頭が固いと言える。

 また、子供は保守的である。例えば、旨いもの、食べたいものは、「マクドナルド」と思い込んでいる。そういうことを解って子供と接していくことが大事である。

 






会場の様子
(会場の様子)