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2019/2/12 南アルプス市八田ふれあい情報館で出張トークを行いました

 平成31年2月12日、南アルプス市八田ふれあい情報館で館長出張トークを行いました。約70名の中巨摩地区の小中学校の司書、教諭の皆さんに「本と言葉」と題して講演しました。落ち着いた、ゆったりとした雰囲気の中で話しました。
 まず、自分の就学期の頃の話から始めました。
 



話をする金田一館長の写真(話をする館長の様子)
  

 自分の家は、いわゆる学者の家だったので暮らしぶりは派手ではないが、本だけは好きに買うことを許されていた。小学校2、3年生の時、大病を患い入院をしていた。その時期にいろいろな本を沢山読んでいた。一番好きな本は、地図帳、時刻表、歴史年表で調べるための本、想像力が広がる、そういう類の本であった。一方で、物語的な本は面白く思わなかった。

 時代が移りインターネットが出現し、本の役割が変わってきた。昔の図書館に自分が求めていたものは、今やほとんどインターネットの中にあると思う。しかし、便利な部分と危なっかしい部分がある。例えば、自分のことが載っているウィキペディアに間違いがあっても自分で直せない。子供はインターネットを見て、そういう間違い、うそを信じてしまう。

 子供や学生に知識を与えたり、増やしたりするというより、考えられるようにすることが自分たちのすべきことである。知識はインターネットにあるので、漢字、書き順なんて知らなくてもいい。与えられたことを覚えることが勉強だと思っているから、あるもの、あるものをそのまま信じてしまう。否定する考え、賢さを、これからの人は持っていてほしい。

  あるものをどう組み合わせていくか、どう使っていくか、そういうリテラシー、道筋を与えていくことが重要である。そういうところの入り口に司書、教諭の仕事がある。

 今、故鶴見俊輔氏の著書を読んでいる。氏の本の中に、言葉をお守りのように使う人のことが書かれている。例えば、「民主主義」、「国益」、「温暖化」等。本当はどういう意味かよく解っていないのに、その言葉でみんなを黙らせてしまう。そういう使い方がある。議論をしないで誰かが言うと簡単に信じてしまう。「温暖化」にしても、地域により事情や考え方も違ってくる。短絡的に悪い、反対とすることが正しいとは限らない。まず、初めに議論をしてもらいたい。

 そういうふうにして失敗したのが、もう70年も前になるが、戦争をしたあの時であり、大きな間違いの始まりであった。強い言葉によって洗脳されている。思考停止に陥っていて、考えないで受け入れている。

 また、「少子化」について言うと、個人的には、7千万人位の人口が良いのでは思っている。 日本がどうしてこんなに貧しく年金が少なくてどうしようもないのかと言えば、要するに人口が多すぎるからである。減少している時、過渡期は大変だが落ち着いたらとてもいい国になるはずである。

 そして、ややもすると、昨年より数が多くないとだめだと考える人達がいる。「成長戦略(神話)」という常識であり、毎年毎年多くならないといけない。そういう考え方にとらわれる必要はない、もうやめたい。数ではなく質を高めることが大切である。図書館でも、実績を非常に気にするが、数が少なくなったらそれはそれでいいではないか。そういうのもお守り的用法のひとつである。

 変に考えなしに受け入れる信仰みたいなものが世の中にいっぱいある。素直な人の頭の中には常識、世間がある。そういうものは、一旦疑い、取っ払った方がいい。風通しのいい世界が見えてくる。子供達にとって、とても良いことである。

 だれを信じたらいいか判らない。うそを言う人はいっぱいいる。でも、ちゃんとしたことを言う人はいる。その人の本を読んでそのガイドに則っていくと、まあまあいける。

 本は連続している。一冊読むとそこに書かれていたことの次を読みたくなり、どんどん繋がっていく。これ一冊で終わりという本はない。そうして繋がっていくいいルートを早く見つけてもらいたい。これを子供達に伝えることが皆さんの役割であると思う。この人なら信用できるがこの人は信用できないということがある。そういう指針、矢印になってくれるものを早く見つけることが大事である。

 若い時は、"本物"がなかなか判らない。早い時期に本物を見つけてもらいたい。中国の古典、アリストテレス、カント、デカルトなど、案外面白かったりする。

 本を読むことは、新しい本を作ること、新しいことを発見することであり、受け身ではなくクリエイティブなことである。例えば、3人が同じ本を読んでも人それぞれであり、Aさんのデカルト、Bさんのデカルト、Cさんのデカルトといった3冊の本が出来上がる。また、同じ本を違う時期に読むと印象が変わり違った感慨がある。いい本は、沢山バリエーションができてくる。自分なりの「トルストイ」、「ドストエフスキー」等々を読む。そういうことである。

 いろいろな理由で小学校、中学校に通えない子供達がいる。勉強しないのはもったいない。図書館はそういう子供達のもの。自分も高校時代は、図書館ばかり行っていて、そこでほっとしていた。日本の社会は、ひとつの型に当てはめて工場の大量生産のように同じ顔の子供を造っている。学校などのしくみの中に入り込むのがいやだという子供達がいる。彼らに居場所を与えてやる、避難場所(アジール)を確保してやる必要がある。

 大人になると"ナンセンス"を楽しめるが、子供はまじめでなくてはいけないと思い込まされている。自分も思い込まされていたような気がする。今、思うと洗脳の度合いに腹が立つ。そういう意味では、むしろ、子供の方が頭が固いと言える。

 また、子供は保守的である。例えば、旨いもの、食べたいものは、「マクドナルド」と思い込んでいる。そういうことを解って子供と接していくことが大事である。

 






会場の様子
(会場の様子)