錦絵(にしきえ)

永禄四年九月川中嶋大合戦
(えいろくよねんくがつかわなかじまだいかっせん)


永禄四年九月川中嶋大合戦(0400213906-001)

 甲斐の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信との戦で知られる川中島の合戦は計5回行われたといわれています。このうち最も有名なのが、この永禄4年(1561)9月の合戦で、武田軍の陣中深く攻め入った謙信が太刀で信玄に切りつけ、信玄がそれを軍配で防いだと伝えられる一騎打ちの戦いです。頼山陽(らいさんよう)の「鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく)」の詩によっても知られ、その戦場となった川中島八幡原(長野県)には「三太刀七太刀の碑」が建っています。この合戦は、謙信軍が啄木=キツツキの戦法で武田軍に大きな損害を与えましたが、武田軍も反撃して、両軍決着がつかないまま終わりました。甲州文庫中にはこうした合戦図が他に30枚ほど所蔵されています。



勝沼駅近藤勇驍勇之図
(かつぬまえきこんどういさみぎょうゆうのず)


勝沼駅近藤勇驍勇之図(0400214342-001)

 慶応4年(1868)、まもなく明治維新を迎えることになるこの年、幕府軍と官軍は全国各地で激しい戦いを繰り広げました。いわゆる戊辰戦争(ぼしんせんそう)です。幕府直轄領であった甲斐国も例外ではなく3月6日、両者が激突するところとなったのでしたが、このとき幕府軍として甲州に入ったのが新撰組の近藤勇たちです。彼らは、甲府城を目指して甲州道中を進んだものの圧倒的な官軍の前に押され、勝沼宿はずれの柏尾(かしお)まで退却、そこで柏尾の戦いが行われました。戦争の勝敗は一日であっけなく決し、近藤勇たち幕府軍は甲州道中を東へと敗走したのでした。この柏尾の戦いは、当時刷り物などで世に紹介され、また、近隣の村人の中には物見遊山の気分で戦争を見物したものもあったといいます。仁王立ちする近藤勇の姿には、幕府軍として最後の抵抗を見せる新撰組の勇壮な戦いぶりがあらわれていますが、結果的には新撰組といえども新しい時代の攻勢の前にはなすすべもなかったのでした。



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