新聞(しんぶん)


峡中新聞・をとめ新聞(こうちゅうしんぶん・をとめしんぶん)

峡中新聞

をとめ新聞

 文明開化といわれた明治維新期には各種の新聞が創刊されるようになりました。新聞は新しい時代の到来と西洋思想及び文化を伝える手段としての役割を持っていたのですが、庶民は新聞縦覧所や新聞解話会のような施設や機会を通じて新聞に接するようになりました。峡中新聞は明治5年(1872)7月に創刊された山梨県最初の新聞です。時の県令土肥実匡(どいさねまさ)が県庁学務課員に命じて編集、甲府八日町の書籍商内藤伝右衛門(ないとうでんえもん)が発行したもので、和紙を二つ折りにした8ページ立ての雑誌型の新聞でした。峡中新聞はその後甲府新聞、甲府日日新聞を経て山梨日日新聞となり、現在まで続いています。をとめ新聞は、その名のとおり女性を対象にした新聞で、明治11年(1878)、やはり内藤伝右衛門によって発刊されました。伝右衛門は義母満寿(ます)の思想に影響を受けて婦人新聞の発行を試みたといわれます。をとめ新聞がいつ廃刊となったかは明らかではありませんが、現在10号までは確認されています。甲州文庫所蔵のものはそのうちの第9号だけが欠けています。



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