山梨県に関するご質問
甲州商人を表現する「めちゃかもん」という言葉がある。意味を知りたい。
回答
「めちゃかもん」あるいは「めかちゃかもん」は、甲州商人の商人気質からきた言葉です。「利口でずるく、すばしっこい。」「負けず嫌いで執念深く、金に細かいさま」「すばしこく、利口で鋭い。」等の意味があり、そのような人を指します。
調査過程
- 甲州方言かと当たりをつけ、方言関係の本を調査しましたが記載された本はありませんでした。
- インターネットで検索してみたところ、甲州商人の気質、山梨の県民性をあらわす言葉だとわかりました。
- 県民性について書かれた本を調べると、各県の県民性を書いた本に山梨県の県民性として「めちゃかもん」「めかちゃかもん」が掲載されていました。
- 国語辞典等の辞典類には記載がありませんでした。
参考資料
-
『日本人の性格』(宮城 音弥/著 朝日新聞社 1969)pp.170-171
請求記号:361.4/ミヤ/ 資料番号:0100315761 -
『県民性雑学ハンドブック』(土平 恭郎/著 PHP研究所 2000)p.126
請求記号:361.4/ツチ/ 資料番号:0103884987 -
『知っておきたい日本の県民性』(武光 誠/[著] 角川学芸出版 2009)pp.130-132
請求記号:B361.4/タケ/ 資料番号:0106708464
※請求記号とは...本の背ラベルに書いてある数字や文字。本の分類などが示されています。
※資料番号とは...当館の資料1冊ごとにつけられた番号。バーコードに記載されている数字です。
調査にあたって
インターネットの検索によって、「めちゃかもん」は他県の人が甲州商人、ひいては山梨の県民性を揶揄するときの言葉だと知り、それなら甲州方言の資料に出てこないのも仕方ない、と気持ちを切り替えて、地域資料ではなく全国の県民性について書かれた資料を調査しました。そこで詳しい意味が判明したので良かったのですが、陰でささやかれていた悪口を聞いてしまったようで、悔しさや悲しさもこみ上げてきました。
作成日:2024年3月22日
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甲府市元紺屋にあった祇園寺について知りたい。牛頭天王が祀られており、江戸時代に疫病が流行った時に神輿を出して疫病が収まるのを祈願したというが、その神輿の写真も見たい。
回答
祇園寺(ぎえんじ)の創建は、清光山峯本院と号し、躑躅が崎館(つつじがさきやかた)の裏鬼門の守りとして勧請された牛頭天王社の別当を務めたことによります。
峯本院は牛頭天王社とともに、文禄年間(1592~1596)に甲府城の鬼門鎮護のため、当山派修験の寺院「祇園寺」として府中元紺屋町の愛宕山中へ移されました。コレラや麻疹が流行すると、疫病退散を祈念した神輿渡りが行われました。
明治初年に廃寺となりましたが、牛頭天王社は八雲神社と改称され、現在まで続いています。
祇園寺の神輿の写真は、確認できませんでした。
調査過程
- 『山梨県史 通史編4 近世』(山梨県/編集 山梨日日新聞社 2007年)や『甲府市史 通史編 第2巻 近世』(甲府市市史編さん委員会/編集 甲府市 1992年)に、祇園寺についての記述があり、疫病退散のため神輿が出されたことが書かれていました。
- 『山梨百科事典』(山梨日日新聞社/編集 山梨日日新聞社 1989年)の「祇園祭り」「八雲神社」の項に、疫病退散のため神輿が出された等の説明がありました。
- 『大日本地誌大系 46 甲斐国志』(雄山閣 1998年)に「祇園寺」の項目があり、元は「清光山峯本院」であること等が書かれていました。
- 『日本歴史地名大系 19 山梨県の地名』(平凡社 1995年)のp.313に、疫病退散を祈念した牛頭大王の神幸の様子が町年寄の御用日記に書きとどめられている、とありました。『角川日本地名大辞典 19 山梨県』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1984年)p.791の「もとこんやまち 元紺屋町」の項に、祇園寺についての詳しい記述がありました。
- 『甲府市今昔写真帖』 (萩原三雄/監修 郷土出版社 2004年)、『甲府物語 市制100周年記念 写真集』(「写真集甲府物語」編集委員会/企画・編集 甲府市 1990年)を確認しましたが、祇園寺の写真はありませんでした。
- インターネットで「清光山峯本院」を検索すると、「平成武田城下町絵図」がヒットしたので、所蔵している『平成武田城下町絵図』(山梨県埋蔵文化財センター [出版年不明])を確認したところ、「12祇園寺(峯本院・牛頭天王社)」の項に説明がありました。
参考資料
-
『山梨県史 通史編4 近世』(山梨県/編集 山梨日日新聞社 2007)pp.946-947
請求記号:K20/ヤマ/ 資料番号:0104239892 -
『甲府市史 通史編 第2巻 近世』(甲府市市史編さん委員会/編集 甲府市 1992)pp.916-917
請求記号:K297/コウ/ 資料番号:0102570090 -
『甲府市史 史料編 第4巻 近世3』(甲府市史編さん委員会/編 甲府市 1987)pp.86-90
請求記号:K297/コウ/ 資料番号:0101945574 -
『甲府市史 別編3 甲府の歴史』(甲府市市史編さん委員会/編集 甲府市 1993)pp.280-282
請求記号:K297/コウ/ 資料番号:0102585536 -
『山梨百科事典』(山梨日日新聞社/編集 山梨日日新聞社 1989)p.259,p.940
請求記号:K03/ヤマ/ 資料番号:0102028446 -
『大日本地誌大系 46 甲斐国志』(雄山閣 1998)p.468
請求記号:K21/マツ/3 資料番号:0103540449 -
『日本歴史地名大系 19 山梨県の地名』(平凡社 1995)p.313
請求記号:K29/ニホ/19 資料番号:0103098638 -
『角川日本地名大辞典 19 山梨県』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1984)p.79
請求記号:K29/カド/19 資料番号:0101999191 -
『平成武田城下町絵図』(山梨県埋蔵文化財センター 出版年不明)1面
請求記号:Z7/7/ 資料番号:0400279311 -
信玄ミュージアムと甲府市歴史文化財課のブログ (甲府にも、人々を疫病から守る神さまいらっしゃいました。)https://blog.goo.ne.jp/rekishibk/e/6f7ad4c63627aa0b56f67fea93c911f0
-
甲府市のホームページ(甲府市歴史ものがたり外伝 その6暑中、コレラが襲う)https://www.city.kofu.yamanashi.jp/rekishi_bunkazai/kinenshi-gaiden6.html
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調査にあたって
小さい頃からよく知っている地元に関する事項だったため、いろいろな記憶がよみがえってきて楽しく調査できました。地図で確認した「峯本院跡」には、現在、片足を垂らした半迦像(はんかぞう)の仏像と道祖神が路傍に祀られているのみです。「峯本院」を偲ぶものは何もありませんが、甲府市相川地区に「峰本自治会」としてその名残をとどめています。
作成日:2024年3月22日
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平成20(2008)年に閉校となった上野原市立西原中学校の校章について、なぜミツバチが採用されたのか、制定年月日、考案者などが知りたい。
回答
昭和22(1947)年に創立された西原村立西原中学校は、この年の4月には町村合併により上野原町立西原中学校に改称しました。校章は、昭和30(1955)年9月に制定されました。考案者や制定の経緯についてはわかりませんでした。
『西原中学校閉校記念誌』(上野原市教育委員会/編・発行 2008年)によると、校章には、ミツバチの生活と習性が、次の4つの精神として込められているそうです。
- 和協:お互いに仲良く協力し合うこと。
- 英知:学問に励み、すぐれた知恵とすぐれた才能、すぐれた体力と健康をめざすこと。
- 勤労:学校・家庭・社会生活において、まじめによく働くことを尊ぶ人になること。
- 奉仕:世のため人のためになることを進んで行い報酬を求めず明るい社会づくりに協力する人になること。
調査過程
- まず、西原中学校の記念誌を確認しました。
『西原中学校閉校記念誌』(上野原市教育委員会/編・発行 2008年)の見返しに、校章(昭和30年9月制定)の写真と意義の記載がありました。またp.4の「西原中学校創立61年そのあゆみ」(年表)の昭和30年9月に「校章が制定される」とあります。『西原中学校創立六十一年その歩み』(山梨県上野原市立西原中学校/編・発行 2008年)には、『西原中学校閉校記念誌』と同様の年表が収録されていますが、校章についての説明等はありませんでした。 - 山梨県の教育に関する資料や上野原市に関する資料を調査しました。『山梨の学校』(浅川明次/編・発行 1993年)、『上野原町誌 下』(上野原町誌刊行委員会/編 甲陽書房 1975年)を確認しましたが、どちらも校章の写真や絵が掲載されているのみで、意味などの説明はありませんでした。
- 「山梨日日新聞」を確認しました。
「山梨日日新聞縮刷版データベース」を「西原中×校章」で検索すると、平成16(2004)年10月13日付け33面「探検プラザ」に西原中学校の紹介があり、「校章に「協力」「英和」などを意味するミツバチがデザインされている」とあります。
「山梨日日新聞」マイクロフィルムで、校章が制定された昭和30(1955)年9月分を確認しましたが、関連記事は見つかりませんでした。 - インターネットで調査したところ、西原中学校webサイト( http://www.city.uenohara.ed.jp/saiharachu/ ※webサイトへの最終アクセス:2024.3.19)がヒットしました。
学校紹介のページに「校章」の紹介ページがあり、校章の写真と、『西原中学校閉校記念誌』と同様の意義についての記述がありました。
参考資料
-
『西原中学校閉校記念誌』(上野原市教育委員会 上野原市教育委員会 2008)見返し、p.4
請求記号:K376.3/サイ/ 資料番号:0104275201 -
上野原市西原中学校webサイト http://www.city.uenohara.ed.jp/saiharachu/?page_id=29
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調査にあたって
学校のことを知りたい、といったレファレンスには、各学校が発行している記念誌が役に立ちます。学校の沿革や歴史、理念、発行当時の学校の様子などがわかる貴重な資料です。少子化が進むにつれ、統廃合により姿を消した学校もありますが、資料にはかつての活気が残されています。
作成日:2024年3月22日
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武田家の家紋「武田菱(割菱)」は江戸時代に作られたもので、武田信玄が実際に使っていたのは「花菱」だったというのは本当か。
回答
江戸時代より前の室町時代に、武家の家紋図案を集録した「見聞諸家紋(けんもんしょかもん)」という書物には、武田家の家紋として「松皮菱」「武田菱」「花菱」が掲載されています。武田信玄が使っていた持ち物と伝わるものには、「武田菱」紋があるものは確認できず、「花菱」紋のみが確認できました。武田家の当主は「花菱」紋を用い、幕などの消耗品には「松皮菱」や「武田菱」も用いていたと思われます。また、江戸時代に想像で描かれた信玄像には、「武田菱」紋を描いた前立をつけたものが多いようです。
調査過程
- まず、家紋事典を確認しました。家紋事典には「見聞諸家紋」掲載の"楯無の鎧"にまつわる武田家の家紋の由来の記述がありましたが、「武田菱」と「花菱」の違いや使い分けなどについては書かれていませんでした。
- 次に戦国武将の家紋に関する資料を確認すると、武田氏の家紋には「武田菱」と「花菱」があり、信玄自身は「花菱」紋を好んでいたようだと書かれていました。
- 『山梨百科事典』(山梨日日新聞社/編集・発行 1989年)で「武田菱」の項を見ると、「花菱」が正式で「武田菱」は外用ですが、信玄所持の文箱(高野山成慶院蔵)には両方の家紋があると書かれていました。
- 3の『山梨百科事典』に書かれていた高野山成慶院の信玄所持の文箱について『原色武田遺宝集』(野沢公次郎/編 武田信玄公宝物保存会 1972年)で写真を確認しましたが、「家紋散蒔絵文箱」には「花菱」のみがあり「武田菱」は確認できませんでした。
- 武田信玄の肖像や所用品に関する資料を調査しました。『鎧をまとう人びと』(藤本 正行/著 吉川弘文館 2000年)には、「信頼できる武田家当主の遺品には花菱紋が付いている。武田家の当主が花菱を正式な家紋としていたことは明らかで、ただ、幕などの消耗品には松皮菱や割菱も用いたのだろう」と書かれていました。また『武田信玄像の謎(歴史文化ライブラリー)』(藤本 正行/著 吉川弘文館 2006年)には、「江戸期に大量に描かれた信玄の甲冑姿の画像には、日輪に割菱紋を描いた前立が散見するが、実際には使わなかったろう」などの記述がありました。
- 『群書類従 第23輯 武家部』(塙 保己一/編纂 続群書類従完成会 1980年)で、1の家紋事典にあった「見聞諸家紋」掲載の"楯無の鎧"にまつわる武田家の家紋の由来を確認しました。本書によると、永禄5(1562)年源頼義が奥州平定を住吉社に祈願した際、神託により拝領した鎧の袖に「割菱」があり、頼義三男新羅三郎義光が家紋としたと書かれており、「松皮菱」と「武田菱」の図がありました。また次頁には「武田大膳大夫・源賢信」として「花菱」の図もありました。"楯無の鎧"の復元写真を『小桜韋威鎧兜・大袖付復元調査報告書』(山梨県立博物館/編集・発行 2007年)で確認しましたが、「花菱」紋の金物の写真があり、「武田菱(割菱)」は確認できませんでした。
参考資料
-
『群書類従 第23輯 武家部』(塙 保己一/編纂 続群書類従完成会 1980)pp.401-402
請求記号:081/グン/23 資料番号:0104264957 -
『鎧をまとう人びと:合戦・甲冑・絵画の手びき』(藤本 正行/著 吉川弘文館 2000)p.229
請求記号:210.4/フジ 資料番号:0103819694 -
『武田信玄像の謎』(藤本 正行/著 吉川弘文館 2006)pp.29-30,p.34
請求記号:K24/タケ 資料番号:0104143508 -
『武田信玄・勝頼の甲冑と刀剣』(三浦 一郎/著 宮帯出版社 2011)pp.61-62
請求記号:K24/ミウ 資料番号:0104563192
※請求記号とは...本の背ラベルに書いてある数字や文字。本の分類などが示されています。
※資料番号とは...当館の資料1冊ごとにつけられた番号。バーコードに記載されている数字です。
調査にあたって
武田信玄の家紋といえば、「武田菱(割菱)」がすぐに思いつきますが、信玄自身は正式な家紋として「花菱」を使っていたようで、今回の調査では、信玄が使っていたとされる持ち物には「花菱」のみが確認できました。「武田菱」は「花菱」を簡略化したもので、幕などの消耗品に使われていたとのことですが、戦場などのあちこちで目にされたため、シンボルマークのように人々に覚えられて、「武田菱」の方が人々の間に定着していったのかもしれません。
作成日:2024年3月22日
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近世、甲斐国にいた「杣(そま)衆」「大鋸(おが)衆」とはどういうものなのか知りたい。
回答
「杣」は、木を伐採したり、その木を材木にしたりする林業労働者です。「大鋸」「大鋸引」は、切り出された木材から板などを製材する職人です。後ろに「衆」を付けることもあります。
甲斐国の杣衆、大鋸衆は甲府城下町北側の山間地域に住んでいて、御用職人として甲府城の築城工事に参加することもありました。『山梨県史 通史編3 近世1』(山梨県/編集 山梨日日新聞社 2006年)を見ると、いつごろから彼らが存在していたのか、どういう報酬が与えられていたのか等がわかります。
詳しくは参考資料をご覧ください。
調査過程
- まず言葉の意味を確認しようと『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)を見ましたが、項目にはなっていませんでした。
- 文字から林業関係かと思われたので、『山梨県史 通史編3 近世1』(山梨県/編集 山梨日日新聞社 2006年)でその時代の職人の記述を確認したところ、「杣衆」「大鋸衆」両方について載っていました。
- 杣・大鋸が住む地域の市町村史(誌)や『山梨県史 通史編3 近世1』にあった参考資料を確認しました。
参考資料
-
『山梨県史 通史編3』(山梨県/編集 山梨日日新聞社 2006)pp.719-749
請求記号:K20/ヤマ/ 資料番号:0104149380 -
『甲府市史 通史編 第2巻』(甲府市市史編さん委員会/編集 甲府市 1992)pp.57-59
請求記号:K297/コウ/ 資料番号:0102570090 -
『敷島町誌』(敷島町/編 敷島町 1966)pp.891-894
請求記号:K295/シキ/ 資料番号:0101910826 -
『山に生きる』(笹本正治/著 岩田書院 2001)pp.15-112
請求記号:K65/ササ/ 資料番号:0103588828 -
『シリーズ近世の身分的周縁 3 職人・親方・仲間』(吉川弘文館 2000)pp.47-72
請求記号:210.5/シリ/3 資料番号:0103852414
※請求記号とは...本の背ラベルに書いてある数字や文字。本の分類などが示されています。
※資料番号とは...当館の資料1冊ごとにつけられた番号。バーコードに記載されている数字です。
調査にあたって
昔の職人たちがどのような暮らしや仕事をしていたのか、調べながら興味深く読みました。
調べたい事柄の読み方が不明の場合は、漢和辞典で調べるほか、今回のように関係しそうな項目から調査することになります。
また、築城への職人の関り方など全国的に同じ状況だと考えられることについては、山梨県関係の本だけでなく一般の本にもあたってみると、情報が得られる可能性があります。
作成日:2024年3月22日
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富山県で「指スマ」と呼ばれている、親指を立てて遊ぶゲームについて、山梨県ではどう呼ばれているか、また、遊び方について知りたい。
回答
山梨県では「せっさん」と呼ばれています。
「せっさーん、1」などと声掛けをして、親指を立てた数を当てます。
調査過程
- この遊びについては、山梨県内では「せっさん」と呼ばれていることを知っていたので、まずインターネットで「せっさん」を検索しました。
・「山梨ガイド」(https://yamanashi-guide.com/sessan/)に「せっさん」について記述がありました。由来については、「山梨県立博物館の職員の中でもせっさんの由来は「積算」「説算」という認識になっています」という記述がありましたが典拠は不明とのこと。
・「山梨子ども風土記」(山梨県総合教育センター)の白根飯野小学校のページ(http://www.kai.ed.jp/webkyou/fudoki/k-chu1/sirane1/iino.html)でも男子に人気のある遊びとして「せっさん」が挙げられていました。 - 県内の遊びの記事として取り上げられていないかと思い、「山梨日日新聞縮刷版データベース」を確認しました。
・ 2008(平成20)年7月16日14面の手遊び、歌遊びの記事に、山梨県の遊びとして「せっさん」が紹介されており、かけ声の方法も載ってました。 - 地域資料の棚で、所蔵資料を調査しました。
・『山梨あるある』p.84に「子どものころせっさんで遊んだ」という記述がありました。遊び方、県外での呼ばれ方についても少しですが記載がありました。
・『山梨百科事典』(山梨日日新聞社/編集 山梨日日新聞社 1989年)、『山梨県史 民俗編』(山梨県/編集 山梨日日新聞社 2003年)も確認しましたが、記載はありませんでした。
参考資料
-
『山梨あるある』(THOGO/著 TOブックス 2015)p.84
請求記号:K36/トゴ/ 資料番号:0106479744 -
『山梨日日新聞 2008年7月16日』(山梨日日新聞社 山梨日日新聞社 2008)14面
資料番号:0200567105
※請求記号とは...本の背ラベルに書いてある数字や文字。本の分類などが示されています。
※資料番号とは...当館の資料1冊ごとにつけられた番号。バーコードに記載されている数字です。
調査にあたって
山梨県での掛け声がわかっていたので、まずインターネットで調べたところ、この遊びについての情報にあたることができました。また、全国的にもポピュラーな遊びであること、地域によって遊びの名称(呼び方)が違うということから、地元の新聞や地域資料を調査し、該当の記事を見つけることができました。
県内の情報については、地域資料が一番の手掛かりとなります。網羅的な資料の収集がレファレンスの回答に生きてきます。
作成日:2023年3月18日
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1904(明治37)年の山梨県立農林高等学校の開校に尽力した、斎藤音作について知りたい。
回答
斎藤音作(さいとう おとさく)は、1866(慶応2)年9月生まれ、1890(明治23)年旧東京農林学校林学部甲科卒業後、農商務省山林局。1896(明治29)年台湾総督府撫墾署長、1899(明治32)年石川県技師、その後山梨県林業課長、北海道庁林政課長等を歴任。1910(明治43)年旧韓国政府山林局勅任技師、朝鮮総督府山林課長、同営林廠長となり、1918(大正7)年退官。その後も朝鮮の緑化及び活山活水の促進に尽力しました。1936(昭和11)年没。
調査過程
- 自館システム、国立国会図書館サーチ、リサーチナビ「目次データベース」等で検索したところ、所蔵資料中に関連資料を見つけることはできませんでしたが、国立国会図書館デジタルコレクションの『財界フースヒー 第3版』(通俗経済社「財界フースヒー」刊行会 1931年)(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970758/1/326)により、齋藤音作の経歴が確認できました。
- 山梨県立農林高等学校の開校に関わったということから、所蔵している同校の周年記念誌を確認しましたが、関連の記述はありません。また、山梨県史や山梨県の人名辞典類のほか、1の『財界フースヒー』に書かれていた出身県の新潟県の県史や人名辞典」等を調査しましたが、齋藤音作の掲載は確認できませんでした。
- 『財界フースヒー』には、「旧韓国政府農商工部山林局技師」「朝鮮総督府山林課長」などの経歴が書かれていたので、明治時代から戦前までの朝鮮人名辞典等を調査すると、「齋藤音作」の項があり経歴が確認できました。
- インターネットの検索エンジンで「齋藤音作」を検索すると、「日本森林技術協会デジタル図書館」(http://jafta-library.com/)の「森林技術」(日本森林技術協会)バックナンバーの記事「「デンマルク国の話」と朝鮮半島の植林」(「森林技術」2012年11月号 No.848収載 http://www.jafta-library.com/pdf/msn848.pdf)がヒットしました。この記事により、浅川巧と関わりがあるらしいこと、山梨県庁での勤務、日本基督教甲府講義所の設立への関与などがわかりました。
- 山梨県のキリスト教史について調査すると、『山梨教会史:その編纂ノート』(大内三郎著 日本キリスト教団山梨教会 1970年)に齋藤音作についての記述があり、山梨県第三部林業課長を務めたことや、キリスト教会との関わりがわかりました。
- 『山梨県林政誌』(山梨県編・発行 1922年)を見ると、明治38年4月に第6課を廃して林業課を設置したとき課長が齋藤技師(音作)であり、その分掌事項が確認できました。
参考資料
-
『朝鮮人名資料事典 第5巻』(日本図書センター 2002)p.604
請求記号:282.1/チョ/5 資料番号:0106570195 -
『日本人物情報大系 73』(芳賀 登/[ほか]編集 皓星社 2001)p.190
請求記号:281.08/ニホ/73 資料番号:0103984555 -
『日本人物情報大系 74』(芳賀 登/[ほか]編集 皓星社 2001)p.127
請求記号:281.08/ニホ/74 資料番号:0103984563 -
『戦前期海外商工興信録集成 第7巻』(不二出版 2010)p.334
請求記号:335.0/セン/7 資料番号:0106113384 -
『山梨教会史』(大内 三郎/著 日本キリスト教団山梨教会 1970)pp.6-8
請求記号:K19/オオ/ 資料番号:0101916757 -
『山梨県林政誌』(山梨県/編 山梨県 1922)pp.132-133
請求記号:K65/ヤマ/ 資料番号:0101984052 -
『財界フースヒー 第3版』(通俗経済社「財界フースヒー」刊行会 1931年) 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970758
-
「森林技術」(日本森林技術協会)バックナンバーの記事「「デンマルク国の話」と朝鮮半島の植林」(「森林技術」2012年11月号 No.848収載) 日本森林技術協会デジタル図書館 http://www.jafta-library.com/pdf/msn848.pdf
※請求記号とは...本の背ラベルに書いてある数字や文字。本の分類などが示されています。
※資料番号とは...当館の資料1冊ごとにつけられた番号。バーコードに記載されている数字です。
調査にあたって
最初は資料が見つからずに苦戦しましたが、オンラインデータベースやインターネット上で得られた情報から、韓国(朝鮮)での技師としての経歴や山梨県庁、キリスト教会との関わりがわかると、それらを手掛かりに多方面から関連資料を見つけることができました。名前を聞いたときにはまったく知らない人物でしたが、調べていくうちに、映画「道-白磁の人」の主人公・浅川巧とも関わりがあったらしいことなどもわかり、興味深く感じた事例です。
斎藤音作と山梨県との関わりについては次のとおりです。
- 1891(明治24)年に日基派の牛込教会で受洗し、以後熱心な日基派の信徒となる。山田新助、森武興らとともに、これまでメソジスト教会の勢力が盛んだった甲府市に、日本基督教会の伝道を開始し、1905(明治38)年の日本基督教甲府講義所開設に至った。
- 山梨県が1898(明治31)年豪雨災害に見舞われたあと、「山梨日日新聞」に治水に関する意見を12回にわたって寄稿し、その後山梨県庁に招聘された。
- 1902(明治35)年5月6日、山梨県技師に任じられて石川県より赴任。1905(明治38)年4月20日、山梨県第三部林業課長。
- 学生時代に、山梨県市川大門の名家で市川教会設立以来功のあった渡辺沢次郎と同宿で知り合い、その妹むら子(ムラ)と結婚。
- 浅川巧と朝鮮総督府の在勤が重なっており、関係があったと推測される。浅川巧の日記(『浅川巧日記と書簡』(浅川 巧/[著] 草風館 2003年))に出てくる「齋藤さん」が齋藤音作にあたるのではないか。
作成日:2023年3月18日
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「甲陽宴楽」という清酒の醸造会社を知りたい。手持ちの写真に「甲陽宴楽」と書かれたビンが写っており、「山梨望月酒造」と読める。身延町の酒造会社らしいが、現存していない。
回答
1980(昭和55)~1983(昭和58)年の電話帳掲載の「山喜望月酒造店」の広告に「清酒甲陽宴楽製造元」とあります。また1985(昭和60)年の電話帳には「山喜酒造店」の広告に「清酒甲陽宴楽製造元」とあります。
年代により「山喜酒造店」「望月酒造店」「山喜望月酒造店」等の記述が見られることから、山喜酒造店と望月酒造店は別の店だった可能性もあります。
1927年の山喜望月酒造店では「旗本」、山喜酒造では「不動正宗」「姫松」、1950年代の望月酒造店では「旗本」、1980年代の山喜望月酒造店では「甲陽宴楽」「甲斐源氏」「菊旗本」、1984年の有限会社山喜酒造店では「甲斐源氏」、1985年の山喜酒造店では「甲陽宴楽」「甲斐源氏」「菊旗本」を造っていたようです。
調査過程
- 身延町の酒造会社とのことなので、山梨県の酒造関係の本を調査しましたが、「甲陽宴楽」の記述はありませんでした。『山梨清酒伝』(渡辺正平/著 2010年)収録の「山梨県酒造家銘鑑(1927年)」に「山喜 望月酒造店」(身延村)のラベルが掲載されていましたが、銘柄は「旗本」でした。他に「山喜酒造」(下山村)があり、銘柄は「不動正宗」「姫松」でした。
- 『身延町誌』(身延町誌編集委員会/編 身延町 1970年)には、昭和初期と昭和42年の醸造業数の掲載はありましたが、具体的な店名や銘柄についての記述はありませんでした。
- 『山梨・南信酒類食品業界名簿』(日本醸友新報社/編 日本醸友新報社 1976年)『山梨・南信酒類食品業界名簿 1984年』(日本醸友新報社/編 日本醸友新報社 1984年)『山梨県商工会名鑑 昭和45年版』(山梨県商工会連合会/編 山梨県商工会連合会 1971年)を調査したところ、身延町の清酒生産者として「望月酒造店」「有限会社山喜酒造店」「山喜」がありましたが、「甲陽宴楽」の銘柄についての記述はありませんでした。
- 国立国会図書館デジタルコレクションで『全国酒類醸造家名鑑』(醸界タイムス社出版部)を調査しましたが、「甲陽宴楽」の銘柄は確認できませんでした。
- 所蔵している電話帳を調査したところ、1980年代のものに「山喜望月酒造店」の広告が掲載されており、「清酒甲陽宴楽醸造元」との記述がありました。『タウンページ(昭和60年3月1日現在)山梨県国中版職業別電話帳』(日本電信電話/編 日本電信電話 1985年)には「山喜酒造店」の広告が掲載されており、「清酒甲陽宴楽醸造元」と記載されていました。1993(平成5)年以降の電話帳には、店名の掲載を確認することができませんでした。
参考資料
-
『山梨清酒伝』(渡辺正平/著 2010)p.17,p.221
請求記号:K58/ワタ/ 資料番号:0104536198 -
『山梨の日本酒』(山梨新報社/編集 南アルプス市立美術館 2019)p.11
請求記号:K58/ヤマ/ 資料番号:0106924129 -
『技術屋随想』(渡辺 正平/著 渡辺正平 2006)p.40,42,43,59,61
請求記号:K58/ワタ/ 資料番号:0104189741 -
『山梨・南信酒類食品業界名簿』(日本醸友新報社/編 日本醸友新報社 1976)p.42
請求記号:K67/ニホ/ 資料番号:0101975076 -
『山梨・南信酒類食品業界名簿』(日本醸友新報社/編 日本醸友新報社 1984)p.30
請求記号:K67/ニホ/1984 資料番号:0103433355 -
『山梨県商工会名鑑 昭和45年版』(山梨県商工会連合会/編 山梨県商工会連合会 1971)p.257
請求記号:K67/ヤマ/1970 資料番号:0103517264 -
『職業別電話帳山梨県国中版』(関東電気通信局/編 日本電信電話公社関東電気通信局 1980)p.400
請求記号:K69/カン/1980 資料番号:0102008257 -
『職業別電話帳山梨県国中版』(関東電気通信局/編 日本電信電話公社関東電気通信局 1982)p.402
請求記号:K69/カン/1982 資料番号:0102008273 -
『職業別電話帳山梨県国中版』(関東電気通信局/編 日本電信電話公社関東電気通信局 1983)p.426
請求記号:K69/カン/1983 資料番号:0102008315 -
『タウンページ 昭和60年3月1日現在 山梨県国中版職業別電話帳』(日本電信電話/編 日本電信電話 1985)p.349
請求記号:K69/ニホ/1985 資料番号:0102008331
※請求記号とは...本の背ラベルに書いてある数字や文字。本の分類などが示されています。
※資料番号とは...当館の資料1冊ごとにつけられた番号。バーコードに記載されている数字です。
調査にあたって
山梨県の日本酒関係の本、酒類業界の名簿、国立国会図書館のデジタルコレクションまで調査したにも関わらず、「甲陽宴楽」という銘柄は見つかりませんでした。ふと思いついて電話帳を見たところ、なんと広告に「甲陽宴楽」の文字が!思わず声が出てしまいました。
電話帳「ハローページ」の制作は昨年終了してしまったので、今後はこのような調査に利用できないかと思うと、寂しくもあり不便でもあり...。新しい調査方法を模索していく必要を感じました。
作成日:2023年3月18日
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山梨県上野原市にあった依水荘の戦前の写真が見たい。与謝野晶子ら文人たちがよく利用したらしい。
回答
『新潮日本文学アルバム 24 与謝野晶子』(新潮社 1985年)p.93に「昭和16年7月、転地療養した山梨県上野原の依水荘」の写真が掲載されています。
『与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ』(山梨県立文学館/編集 山梨県立文学館 2013年)p.43には「〔桂川〕河面ヨリ見タル依水荘」と題した絵葉書の画像が載っていますが、年代は不明です。
また、山梨県立文学館の所蔵検索によると、依水荘の絵葉書(9点)を所蔵していますが、年代は不明です。
調査過程
- 上野原市立図書館に既にお問い合わせ済みとのことだったので、上野原市関係の資料は除外して調査しました。
- 山梨県立文学館で与謝野晶子を取り上げた展示を何回か開催しているので、図録類を確認しました。
その中で『与謝野晶子展われも黄金の釘一つ打つ』(山梨県立文学館/編集 山梨県立文学館 2013年)p.43に「〔桂川〕河面ヨリ見タル依水荘」と題した絵葉書の画像ありました。しかし、年代は記載されていませんでした。
図録には与謝野晶子がほかの文人たちと桂川で船に乗っている写真もあり、「冬柏」(冬柏発行所)という雑誌に掲載されていることが分かりました。 - 雑誌「冬柏」を国立国会図書館デジタルコレクションで確認しましたが、依水荘の写真は見つかりませんでした。
- 山梨県立文学館のホームページの蔵書検索で検索すると、「依水荘」絵はがき(9点)を所蔵していることがわかりましたが、年代は書かれていませんでした。
- 与謝野晶子の評伝等を調査してみると、『新潮日本文学アルバム 24 与謝野晶子』(新潮社 1985年)p.93に「昭和16年7月、転地療養した山梨県上野原の依水荘」の写真が載っていました。
参考資料
-
『与謝野晶子展』(山梨県立文学館 山梨県立文学館 2013)p.43
請求記号:Y911/ヤマ/ 資料番号:0104662382 -
『新潮日本文学アルバム24』(新潮社 1985)p.93
請求記号:910.26/シン/24 資料番号:0101413144
※請求記号とは...本の背ラベルに書いてある数字や文字。本の分類などが示されています。
※資料番号とは...当館の資料1冊ごとにつけられた番号。バーコードに記載されている数字です。
調査にあたって
簡単にわかるだろうと思っていると、意外と時間がかかるということはレファレンスではよくあることです。このレファレンスも上野原市ではよく知られた建物だったので、質問者は写真くらい残っているだろうと思い地元の図書館に質問したのだと思いますが、難しかったようです。
与謝野晶子ら文人たちがよく利用した建物という事前の情報がありましたので、まず与謝野晶子関連資料を収集している山梨県立文学館の資料から調べてみることにしました。このように、ちょっとした情報から解決の糸口がみつかることが多いので、質問者からいろいろお聞きすることはとても重要だと感じたレファレンスでした。
作成日:2023年3月18日
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1972(昭和47)年の札幌オリンピックの聖火リレーにおける山梨県内でのルートを知りたい。
回答
札幌オリンピックの聖火リレーについては、「山梨日日新聞」1972(昭和47)年1月3日~5日に記事がありました。
記事によると、ルートの概要は次のとおりです。
1月2日
籠坂ドライブイン前で静岡隊から聖火を受け、車で山中湖村役場前へ運ぶ。山中湖村を2区間リレーし、車で富士吉田ドライブイン前へ運ぶ。5区間をリレーし富士吉田市役所に到着。(1月3日2面掲載)
1月3日
富士吉田市役所前から河口湖畔をリレーし、御坂トンネルを車で輸送した後、御坂から石和を通って甲府市に入り、県庁前に到着。(1月4日1面掲載)
1月4日
県庁前から甲府駅前ロータリーを一周し、平和通りを南下して国道2号線から竜王ー双葉を抜けて分火地点の韮崎市文光堂書店前に到着。ここから本州東コースと西コースに分かれる。東コースは、韮崎市から須玉、高根町を経て国境橋で長野県側に引継ぎ。
西コースは、武川村、白州町を経て国界橋で長野県側に引継ぎ。(1月5日5面掲載)
なお、記事には「国道2号」とありますが、国道2号線は大阪市と北九州市を結ぶ道路であること、県道2号線は欠番となっていることから、国道20号線の誤りだと思われます。
調査過程
- 所蔵している札幌オリンピックに関する本では、聖火リレーのルートはわかりませんでした。
- 『甲府市史 別編Ⅳ 年表索引』(甲府市市史編さん委員会/編 甲府市役所 1993年)で1972(昭和47)年を確認したところ、「1.3 第11回冬季札幌オリンピック聖火、甲府に到着」(p.259)とありました。
- 「県政通信 No.30」(山梨県公聴広報課)の昭和47年3月号を確認したところ、p.15に「2日札幌を目ざすオリンピックの聖火は、静岡県から籠坂峠をこえて本県に入った。この日は富士吉田市役所、三日は県庁に保管され、四日には韮崎市で二つに分けられ、本州東コースは国道一四一号、西コースは国道二十号を通って北上し長野県に向かった」と記載されていました。
- 聖火リレーの日程がわかったので、「山梨日日新聞縮刷版1972年1月号」(山梨日日新聞社)で1月3日前後の記事を確認したところ、3日~5日にルートやリレーの様子が詳しく報告されていました。
参考資料
-
『甲府市史 別編4 年表索引』(甲府市市史編さん委員会/編 1993)p.259
請求記号:K297/コウ/ 資料番号:0102598455 -
『県政通信 No.30』(山梨県県民室 1972)p.15
資料番号:0200276673 -
『山梨日日新聞縮刷版1972年1月号』(山梨日日新聞社 1972)p.74,97,113
資料番号:0200574556
※請求記号とは...本の背ラベルに書いてある数字や文字。本の分類などが示されています。
※資料番号とは...当館の資料1冊ごとにつけられた番号。バーコードに記載されている数字です。
調査にあたって
時事的な事項の調査には新聞が役立つことが多いです。山梨日日新聞のデータベースの閲覧期間は1989(平成元)年以降なので、別の資料で年月日を特定しました。年月日がわかれば、マイクロフィルムや縮刷版で調べるのもスムーズです。
事実調査では複数の資料が提供できればよかったのですが、今回は資料を見つけられず残念でした。
作成日:2023年3月18日
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1964(昭和39)年の東京オリンピックの聖火リレーの際、山梨市を走ったランナーがわかる資料はないか。『山梨県体育史』に載っていると聞いたが。
回答
『山梨県体育史』第1巻(山梨県体育協会 1969)を確認しましたが、該当する年の記録や「山梨市体育協会のあゆみ」の項目には載っていませんでした。
『オリンピックとわたくしたち』(山梨県 [1964])p.6に、聖火リレーの山梨市到着時間、出発時間の記載があり、「山梨日日新聞」1964(昭和39)年9月17日6面、9月30日3面、10月4日6~7面には、当時の写真、走者の名前、経路などが掲載されています。
また、『オリンピック東京大会山梨県聖火リレー隊名簿』(オリンピック東京大会国内聖火リレー山梨実行委員会 1964)に正副の走者及び随走者の名前、所属(校)などの記載がありました。
調査過程
- 載っていると聞いたという情報をもとに、『山梨県体育史』第1巻(山梨県体育協会)を確認しましたが、該当する年の記録や「山梨市体育協会のあゆみ」の項目には載っていませんでした。
- 山梨市や山梨県に関する記録であることから、『山梨市史』(山梨市)、『山梨県史』(山梨日日新聞社)も確認しましたが、記載がありませんでした。
- そこで、当館のレファレンスデータベースで「聖火」をキーワードに検索すると、「山梨日日新聞」等が参考資料として挙げられていたので、オリンピックの年の縮刷版を確認しました。
- また、検索のキーワードとして「オリンピック」と「山梨県」で複合して検索したところ、『オリンピックとわたくしたち』『オリンピック東京大会山梨県聖火リレー隊名簿』の資料を確認することができました。
参考資料
-
『山梨日日新聞縮刷版 昭和39年9月号』(山梨日日新聞社 1964)p.166,p.271
資料番号:0200574481 -
『山梨日日新聞縮刷版 昭和39年10月号』(山梨日日新聞社 1964)p.30
資料番号:0200567105 -
『オリンピックとわたくしたち』(山梨県編集/編集 山梨県 1964)p.6
請求記号:Y78/ヤマ/ 資料番号:0103466587 -
『オリンピック東京大会山梨県聖火リレー隊名簿』
(オリンピック東京大会国内聖火リレー山梨県実行委員会/編 オリンピック東京大会国内聖火リレー山梨県実行委員会 1964)
請求記号:K78/オリ/ 資料番号:0106870314
※請求記号とは...本の背ラベルに書いてある数字や文字。本の分類などが示されています。
※資料番号とは...当館の資料1冊ごとにつけられた番号。バーコードに記載されている数字です。
調査にあたって
掲載があると聞いたという資料に掲載がなかったため、自治体のことを網羅的に記録している市史、県史を見ましたが記録がなく、最終的には新聞記事を確認することになりました。当時の新聞には、オリンピック関係の記事が詳細に掲載されており、人々の関心が高かったことがうかがい知れました。新聞や名簿などからリレー走者は導き出せましたが、走者の選出過程までたどり着けなかったのは残念でした。
作成日:2022年3月16日
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昭和27年3月頃に作られた「山梨観光小唄」の歌詞や楽譜があるか。
回答
「山梨観光小唄」(作詞:深尾須磨子 作曲:古関裕而)の楽譜は、「山梨日日新聞」1952(昭和27)年4月1日(4面)に掲載があります。また、歌詞(1番~3番)は、その他の参考資料に掲載されています。
調査過程
- 山梨県関係資料コーナーで地域資料K76(音楽)の書架をブラウジングして「山梨観光小唄」の掲載されている本を探すと、『山梨の歌謡全集:ふるさとご当地ソング』(竹内秀秋/編 山梨県歌謡音楽協会 1980年)に1番から3番の歌詞の掲載がありました。民謡や新民謡の歌詞と楽譜の掲載がある『甲府市史 別編 1 民俗』(甲府市市史編さん委員会/編 甲府市 1988年)の「歌謡」の項には「山梨観光小唄」の掲載はありませんでした。
- 「昭和27年3月頃に作られた」との情報から、1952(昭和27)年3月~4月新聞記事をマイクロフィルムで確認すると、「山梨日日新聞」1952(昭和27)年4月1日(火曜日)4面「きょう試聴会 「観光小唄」テスト盤出来る」の記事に、歌詞(1番のみ)と楽譜が掲載されていました。また、「山梨時事新聞」1952(昭和27)年4月2日(水曜日)3面に「山梨観光小唄 きのう試聴会」の記事があり、1番から3番の歌詞の掲載がありました。この曲は観光宣伝のため、山梨県婦人観光協会が深尾須磨子に作詞、古関裕而に作曲を依頼し、藤山一郎と二葉あき子が吹き込んでテスト盤を作成したそうです。
- 観光宣伝のために作られた曲であることから、古い観光案内を確認したところ、『山梨の観光 1968』(山梨県観光連盟/編・発行 1968年)などに1番から3番の歌詞の掲載がありました。
- 国立国会図書館サーチ(https://iss.ndl.go.jp/)で「山梨観光小唄」を検索すると、国立国会図書館デジタルコレクションの「山と渓谷」通巻165号(山と渓谷社 1953年6月)がヒットしました。所蔵している同誌を確認したところ、1番から3番の歌詞の掲載がありました。
- インターネットの検索エンジンで「山梨観光小唄」を検索すると、『身延町誌』(身延町誌編集委員会/編 身延町 1970)に掲載されていることがわかりました。所蔵している原本を確認すると、タイトルが「山梨県観光小唄(抄)」となっており1番と2番の歌詞の掲載がありました。
参考資料
-
『山梨の歌謡全集』(竹内 秀秋/編 山梨県歌謡音楽協会 1980)p.50
請求記号:K76/タケ/ 資料番号:0101989150 -
『山梨日日新聞(マイクロフィルム)昭和27年4月1日』4面
-
『山梨時事新聞(マイクロフィルム)昭和27年4月2日』3面
-
『山梨の観光 1968』(山梨県観光連盟/編 山梨県観光連盟 1968)p.134
請求記号:K29/ヤマ/1968 資料番号:0103482469 -
『山と渓谷 168』(山と渓谷社/編 山と渓谷社 1953)p.72
請求記号:K29/ヤマ/168 資料番号:0101939650
※請求記号とは...本の背ラベルに書いてある数字や文字。本の分類などが示されています。
※資料番号とは...当館の資料1冊ごとにつけられた番号。バーコードに記載されている数字です。
調査にあたって
いわゆる「ご当地ソング」の調査は、まず郷土資料のK76の本棚でブラウジングして探すことから始めますが、歌詞はありましたが楽譜が見つからなかったので、当時の新聞記事を確認することにしました。古い地元紙の記事はデータベース化されていないため、マイクロフィルムでの調査となります。紙面を1枚ずつ確認するのは大変ですが、今回の調査では、楽譜は新聞記事でしか確認できませんでした。なお、この曲を作曲した古関裕而さんに関しては、近年テレビドラマの主人公のモデルにもなったことで、関連書籍やCDが多く発売されています。「山梨観光小唄」(藤山一郎、二葉あき子)は、 2021年9月発売のCD『古関裕而秘曲集 〜新民謡・ご当地ソング編』(日本コロムビア)に収録されています。
作成日:2022年3月16日
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甲府中学の野球部で活躍し、日本人初のプロ野球選手となった三神吾朗について知りたい。
回答
三神吾朗は、1889(明治22)年甲府市生まれで、甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)、早稲田大学を経てアメリカに留学中、アメリカプロ球団でプレーし、日本人初のプロ野球選手となりました。
「山梨日日新聞」1911(明治44)年8月25日から9月2日にかけて、「米國野球界の印象」というタイトルで全8回にわたり本人の文章が掲載されています。
調査過程
- 『山梨百科事典』(山梨日日新聞社/編集 山梨日日新聞社 1989)を確認しましたが、立項されていませんでした。
- 県史、市史を確認したところ、『山梨県史 通史編5』(山梨県/編集 山梨日日新聞社 2005)に「三神兄弟の活躍」の項があり、三神吾朗のプロフィールが記載されていました。
- 甲府中学校、甲府第一高等学校関連の資料を調査したところ、『甲府中学・甲府一高野球部史』(鶴城野球倶楽部/編 鶴城野球倶楽部 1983)、『創立50周年記念誌』(甲府中学校/編 甲府中学校同窓会交友会 1930)、『甲一物語』(山梨時事新聞社/編 山梨時事新聞社 1965)に記述がありました。
- 先輩司書のひとりが、『「ジャップ・ミカド」の謎 米プロ野球日本人第一号を追う』(佐山和夫/著 文藝春秋 1996)という本に三神吾朗について書いてあったはず、と教えてくれました。内容を確認すると、アメリカの「オール・ネイションズ」という野球チームで活躍したジャップ・ミカドという選手が、甲府中学出身の三神吾朗であるということを突き止めたルポルタージュでした。
- 前出『山梨県史 通史編5』に三神吾朗が日米野球比較論を「山梨日日新聞」に掲載していた旨の記述があったので、マイクロフィルムで新聞記事を調査したところ、全8回の連載が見つかりました。
参考資料
-
『「ジャップ・ミカド」の謎 米プロ野球日本人第一号を追う』(佐山 和夫/著 文芸春秋 1996)1冊
請求記号:K78/サヤ/ 資料番号:0103269148 -
『山梨県史 通史編5』(山梨県/編集 山梨日日新聞社 2005)p.491
請求記号:K20/ヤマ/ 資料番号:0104110101 -
『甲府中学・甲府一高野球部史』(鶴城野球倶楽部/編 鶴城野球倶楽部 1983)p.11,12
請求記号:K78/カク/ 資料番号:0101996635 -
『甲府中学校創立五十周年記念誌』(甲府中学校/編 甲府中学校同窓会交友会 1930)p.49-50
請求記号:K376.4/コウ/ 資料番号:0101957876 -
『甲一物語』(山梨時事新聞社/編 山梨時事新聞社 1965)pp.102-103
請求記号:K376.4/コウ/ 資料番号:0103526414 -
『山梨日日新聞(マイクロフィルム)明治44年8月25日―9月2日』(山梨日日新聞社)
※請求記号とは...本の背ラベルに書いてある数字や文字。本の分類などが示されています。
※資料番号とは...当館の資料1冊ごとにつけられた番号。バーコードに記載されている数字です。
調査にあたって
『「ジャップ・ミカド」の謎 米プロ野球日本人第一号を追う』(佐山和夫/著 文藝春秋 1996)という本は、まるまる1冊三神吾朗について書かれた本です。おそらく、三神吾朗について最も詳しい本だと思われます。ところが、タイトルにも、内容紹介文にも、三神吾朗の名前は出てきません。そのため、最初はこの本の存在に気付くことができませんでした。この本にたどり着けたのは、ひとえに先輩司書の記憶によるもの。図書館資料に精通することの必要性を改めて感じました。経験って重要ですね!そして経験を共有するチームワークの大切さも実感した一件でした。
作成日:2022年3月16日
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大正後期、長坂駅から東京まで列車でどれくらい時間がかかったか、また、どのくらいの本数が出ていたか知りたい。
回答
1923(大正12)年7月の時刻表によると、長坂駅から飯田町駅(千代田区飯田橋)または新宿駅まで乗り換えなしで行ける列車は上下線7本ずつありました。午前6時55分長坂駅発の上り列車が、終点の飯田橋町駅に到着するのは午後1時15分で、所要時間は6時間20分であったことがわかりました。
調査過程
- 長坂に関係する資料として、まず『長坂町誌』(長坂町誌編纂委員会/編 長坂町 1990)を確認しました。p.447に長坂駅の営業開始日、営業開始以降の乗客数、降客数は記載されていましたが、東京までの時間や本数についての記述はありませんでした。
- 山梨県の鉄道関係の資料を確認しました。『山梨の鉄道』(川島令三/著 山梨日日新聞社 2003)p.47に甲府~飯田町間が6往復、所要時間が6時間程度との記述がありましたが、長坂駅については分かりませんでした。
- 『明治大正時刻表 8~10』(新人物往来社 1998)、『明治大正鉄道省列車時刻表 14、18』(新人物往来社 2000)の中央本線の表に、長坂駅から飯田町駅までのダイヤが載っていました。
参考資料
-
『明治大正時刻表〔9〕』(新人物往来社 1998)p.146,149
請求記号:686.5/メイ/9 資料番号:0105235469 -
『明治大正時刻表〔8〕』(新人物往来社 1998)p.146,149
請求記号:686.5/メイ/8 資料番号:0105235451 -
『明治大正時刻表〔10〕』(新人物往来社 1998)p.154,157
請求記号:686.5/メイ/10 資料番号:0105235477 -
『明治大正鉄道省列車時刻表〔14〕』(新人物往来社 2000)p.42
請求記号:686.5/メイ/14 資料番号:0105235618 -
『明治大正鉄道省列車時刻表〔18〕』(新人物往来社 2000)pp.65-66
請求記号:686.5/メイ/18 資料番号:0105235659
※請求記号とは...本の背ラベルに書いてある数字や文字。本の分類などが示されています。
※資料番号とは...当館の資料1冊ごとにつけられた番号。バーコードに記載されている数字です。
調査にあたって
時刻表は、改正も多く、改正前の昔のものはもう役に立たないと思っていましたが、今回の調査で過去の資料の面白さに気づかされました。もちろん知っている駅も多いのですが、聞いたことのない駅の名前も見え、思いもよらないところから郷土のことを知ることができました。一つのレファレンスから、他のことを学べることも多くあります。
作成日:2022年3月16日
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戦前、山梨県に「村松時計甲府工場」があったそうだが、現在その場所がどうなっているか知りたい。
回答
1997(平成9)年9月23日の「山梨日日新聞」に、戦時中の動員の記事で「村松時計製作所は南甲府駅近くの軍需工場で......」とありました。また、1942(昭和17)年の電話帳によると、村松時計製作所甲府工場は住所が甲府市東三條47と掲載されていました。『甲府市地籍図』(渡邊 安五郎/製図 1924)で東三條47の場所を確認し、現在地を住宅地図で確認すると南甲府駅から北へのびる朝気通りの東側甲府市南口町5-17周辺になります。現在は民家や駐車場になっています。
調査過程
- 甲府市関連資料や近代の甲府の写真集などでは確認できませんでした。
- 商工名鑑を見ると村松時計店の名前は掲載されているが場所や工場のことは載っていませんでした。
- 「山梨日日新聞縮刷版検索」データベースで検索すると、甲府工業学校の戦時中の動員の記事として「村松時計製作所は甲府南駅近くの軍需工場で......」と村松時計製作所の名前が出てきました。
- 山梨県内の地図、電話帳で確認すると、『山梨県電話番号簿 昭和17年10月1日現時』(甲府郵便局/編纂 甲府郵便局 1943)に村松時計製作所甲府工場(東三條47)と掲載されていました。
- 『甲府地籍図』(渡邊 安五郎/製図 1924)によると、東三條通りの東側に47番地がありました。
- 『ゼンリン住宅地図甲府北』(ゼンリン 2019)により、東三條47は現在の南口町5-17周辺、朝気通り東側にあたることを確認し、現在は民家や駐車場になっていることがわかりました。
参考資料
-
『山梨県電話番号簿 昭和17年10月1日現在』(甲府郵便局/編纂 甲府郵便局 1943)p.20
請求記号:K69/ヤマ/1942 資料番号:0104587498 -
『甲府地籍図』(渡邊 安五郎/製図 1924)p.1
請求記号:K297/コウ/ 資料番号:0103560637 -
『山梨日日新聞縮刷版 平成9年9月号』(山梨日日新聞社 1997)p.643
資料番号:0200495000 -
『ゼンリン住宅地図山梨県甲府北』(ゼンリン 2019)p.121右
請求記号:K297/ゼン/2019 資料番号:0106855158
※請求記号とは...本の背ラベルに書いてある数字や文字。本の分類などが示されています。
※資料番号とは...当館の資料1冊ごとにつけられた番号。バーコードに記載されている数字です。
調査にあたって
「〇〇周辺の昔の地図を見たい」「〇〇は、明治のころはどうだったか知りたい」など、昔の地図を見たいという人はとても多いです。現在は、住宅地図や道路地図など詳しい地図がいろいろありますが、戦前のものはほとんど所蔵がなく、市町村誌や統計書などの資料の中にある地図から探し出したり、地形図などで全体を確認するなどしますが、なかなか要望に答えられないことも多いですね。
作成日:2022年3月16日
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1887(明治20)年頃、甲府と東京の間は主にどのように移動したか。手段、日数、宿等について知りたい。
回答
鉄道が開通するより前のため、庶民が移動するには人力車、駕籠、徒歩、馬車、乗合馬車等を使い、甲州街道や脇往還を通行していました。商用の荷物を運ぶ際には、各宿場町を人馬で中継する陸運会社や積み替えせずに運ぶ中馬会社がありました。荷車や牛馬車も使われていました。
甲府東京間は、駕籠で2泊3日、徒歩で3泊4日、庶民の急ぎの旅で2泊3日、乗合馬車や人力車では1日かかりました。
宿についてわかる資料が見つかりませんでしたが、甲州街道沿いには庶民が泊まる旅籠があったようです。
調査過程
- 山梨県の交通関係の資料や、山梨県の歴史資料をまず調べました。明治初期に陸運会社が設立され、甲州街道18宿・脇往還16駅に各陸運会社が開業したこと、牛馬関係者による会社も同時期に設置され荷車・馬車の使用が始まっていたらしいことがわかりました。また江戸-甲府間の移動にかかった日数も見つかりました。
- 当館が受けたレファレンスのデータベースで、キーワード「交通」で検索すると、馬車鉄道の事例がヒットし、「1898(明治31)年に山梨馬車鉄道が甲府-勝沼間の営業を開始したのが最初」と回答しています。
- 明治期の旅行について『日本生活史辞典』(吉川弘文館 2016)を調べたところ、「はたご 旅籠」の項に旅宿の説明があり「甲州道中では約11軒程度」とありました。
- 他の同様のレファレンスで使用した『甲府市史 市制施行以後』(甲府市 1964)を確認したところ、明治期前半に乗合馬車・人力車も存在したことや、旅籠について触れています。また『山梨鑑 上巻』(国書刊行会 1982)の1891(明治24)年の料金表から、人足・荷車・荷馬車・人力車・乗合馬車・駕籠・荷牛車が存在していたことが分かりました。
参考資料
- 『山梨県史 通史編5』(山梨県/編集 山梨日日新聞社 2005)p.56,272
請求記号:K20/ヤマ/ 資料番号:0104110093 - 『日本歴史地名大系 19』(平凡社 1995)p.41
請求記号:291.03/ニホ/19 資料番号:0102996956 - 『山梨百科事典』(山梨日日新聞社/編集 山梨日日新聞社 1989)p.518,612
請求記号:291.51/ヤマ/ 資料番号:0103544193 - 『山梨県歴史の道調査報告書 第4集』(山梨県教育委員会/編 山梨県教育委員会 1985)pp.12-13,18
請求記号:K29/ヤマ/4 資料番号:0101941441 - 『日本生活史辞典』(木村 茂光/編 吉川弘文館 2016)p.531
請求記号:382.1/ニホ/ 資料番号:0106679277 - 『甲府市史』(甲府市史刊行委員会/編 甲府市 1964)pp.1544-1546
請求記号:K297/コウ/ 資料番号:0101945236 - 『山梨鑑 上巻』(小幡 宗海/共編 国書刊行会 1982)p.134
請求記号:K29/オバ/1 資料番号:0101941045
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調査にあたって
甲州街道で日本橋から宿場があった甲府柳町まで136kmあります。徒歩で3泊4日、庶民の急ぎの旅で2泊3日ということは、単純に日数で割ると一日の移動距離が34km、急ぎだと46km弱になります。昔の人は健脚だったと言いますが、あらためてそれを痛感したレファレンスでした。
作成日:2021年3月30日
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武田信玄は普段、どんな食事をしていたのか?
回答
武田信玄が日常的にどんな料理を食べていたのかはわかっていません。普段の食事ではありませんが、山梨県立博物館の展示図録『甲州食べもの紀行』には、饗宴料理を復元したお膳の写真と解説があります。復元したお膳は『甲陽軍鑑』品第四十四「御献立之次第」に記載されたものです。武田信玄一代記ともいえる『甲陽軍鑑』には、他にも「湯浸之事」「七ノ膳之次第」「汁のある饅頭の事」など、料理に関する記述がたくさんあります。
調査プロセス
- まず手始めに、『山梨県史』や戦国時代の食文化についての本などを調査しましたが、武田信玄については、陣中食としてのほうとうについての記述があるだけで、日常食について書かれているものは見つけられませんでした。
- そこで県立博物館の企画展の図録『甲州食べもの紀行』を見てみると、「復元!信玄の食膳」の章がありました。そこには、日常的に食べていたものについては手がかりがほとんどなく、わからない、と書かれていました。一方、ハレの日の饗宴料理については『甲陽軍鑑』などに残されており、復元した料理の写真も掲載されていました。
参考資料
- 『甲州たべもの紀行』(山梨県立博物館/編 山梨県立博物館 2008)pp.41-58,120-141
請求記号:K38/ヤマ/ 資料番号:0104522172 - 『甲陽軍鑑 下』(磯貝 正義/校注 新人物往来社 1976)pp.175-178
請求記号:K24/コウ/2 資料番号:0101961647 - 『甲斐叢書 第4巻』(甲斐叢書刊行会/編 第一書房 1974)pp.584-585
請求記号:K08/カイ/4 資料番号:0104140256 - 『甲陽軍鑑大成 第2巻 本文篇』(酒井 憲二/編著 汲古書院 1994)p.246
請求記号:K24/コウ/2 資料番号:0104130489
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調査にあたって
武田信玄やその時代についてのレファレンスはとても多いのですが、戦国時代の確かな史料はあまり残っておらず、詳細はわからないことがほとんどです。今回、ご紹介した『甲陽軍鑑』も、その当時に書かれたものではなく、江戸時代になってから編纂された軍記物です。記述には間違いも多く、また、武田側の視点から書かれているため、歴史書としては客観性にも欠けるとされています。しかし、当時の武田家の様子がとても詳しく書かれており、武田を語る時には欠かせない史料です。現代の小説やドラマ、映画で描かれる武田信玄像も、『甲陽軍鑑』によるところが多いようです。
作成日:2021年3月30日
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甲斐犬について知りたい。
回答
甲斐犬は、日本犬の中で秋田犬に次いで2番目に国の天然記念物に指定された犬種です。小林承吉が調査研究し、1934(昭和9)年1月22日に国の天然記念物に指定されました。その後、他県の業者に買い集められ絶滅しかけたことがあったため、山梨県の名士を中心に、甲斐犬の保存を目的として甲斐日本犬愛護会が設立されました。絶滅を防ぐ手段として、体型を他に説明しないことを鉄則としていたようですが、現在特徴等の詳細(大半は鹿犬形の虎毛色系、耳は立ち耳で顔が心もち長く、たてがみと背筋の毛が長い。物覚えが良く、主命への絶対服従、粗食に耐える)は公表されています。主産地は芦安村(現南アルプス市)です。
調査プロセス
- 『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)で概要を確認しました。
- キーワード「甲斐犬」で所蔵資料を検索しました。『甲斐犬』(甲斐犬愛護会 1967)などに詳しい説明や天然記念物指定の告示、甲斐犬の写真が載っていました。主産地は芦安村(現南アルプス市)でした。
- 『芦安村誌』(芦安村 1994)を確認しました。
- 地方紙データベース「山梨日日新聞縮刷版検索」で「甲斐犬」をキーワードに検索しました。
参考資料
- 『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)p.184
請求記号:K03/ヤマ/ 資料番号:0102028446 - 『国の天然記念物甲斐犬ものがたり』(つなぐ 2008)1冊
請求記号:K64/ツナ/ 資料番号:0104558275 - 『甲斐犬の歴史と解説』(小林 君男/著 小林 君男 2006)1冊
請求記号:K64/コバ/ 資料番号:0104636170 - 『甲斐犬の神髄、ここにあり。』(雨宮 精二/著 和器出版 2017)pp.17-21,56-115,まえがき
請求記号:K64/アメ/ 資料番号:0106772916 - 『甲斐犬』(柳沢 琢郎/[著] 阿部 博 2004)pp.61-62
請求記号:K64/ヤナ/ 資料番号:0104110234 - 『芦安村誌』(芦安村 1994)pp.1197-1200
請求記号:K295/アシ/ 資料番号:0102929486 - 『郷土に生きる』(山形 三吉/編著 甲陽書房 1976)pp.37-60
請求記号:K28/ヤマ/ 資料番号:0101946044 - 『甲斐犬現勢』(甲斐犬愛護会 1973)1冊
請求記号:K64/カイ/ 資料番号:0101983708 - 『甲斐犬』(甲斐犬愛護会 1967)1冊
請求記号:K64/カイ/ 資料番号:0101983716 - 『甲斐路ふるさとの生物』(山梨日日新聞社 1993)p.27
請求記号:K40/ヤマ/ 資料番号:0102915196 - 『山梨日日新聞縮刷版 平成4年2月号』(山梨日日新聞社 1992)p.456
資料番号:0200570968
- 『山梨日日新聞 2017年(平成29年)7月29日』11面
- 『山梨日日新聞 2018年(平成30年)1月1日』97面
- 『山梨日日新聞 2018年(平成30年)1月6日』13面
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調査にあたって
以前からよく聞かれるテーマの一つで、利用者の方に紹介できる資料は限られている印象がありましたが、探すと意外にあると感じました。時代が下るに従って状況が変わり、公表される情報があるという事例でした。
作成日:2021年3月30日
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山梨県内のオオカミ信仰について知りたい。
回答
オオカミ信仰ですが、「山梨の狼信仰」(『オオカミがいた山』)収録)によりますと、三峯神社など御眷属である狼(お犬様)のお札を配る神社が、秩父を中心に関東の山間部に数多くあります。「山間部の焼畑地帯では猪鹿による作物への被害が深刻であり、これらを食べてくれる狼への信仰が生まれた。作物を盗む害獣を防ぐことから盗難除け、獣を除けることからキツネなどの憑き物落としが派生した。」とあります。詳しくは参考資料をご覧ください。
調査プロセス
- キーワード「オオカミシンコウ」で蔵書検索をしたところ、博物館刊行の『オオカミがいた山』や論文「甲州周辺における狼信仰」(『山梨県立博物館研究紀要2』所収)「王勢駕籠権現の狼信仰」(『山梨県立博物館研究紀要 第3集』所収)が見つかりました。
- 1の論文等で引用していた参考資料を調査しました。
- 山梨県の民俗学に関する資料から、狼信仰や、1で解説していた三峯信仰(三峯神社)や狼信仰のある神社について調査しました。
- 調査の過程で確認できた「狼信仰」が行われていた地域の市町村誌を調査しました。
参考資料
- 『オオカミがいた山』(山梨県立博物館/編 山梨県立博物館 2007)1冊
請求記号:K48/ヤマ/ 資料番号:0104201249 - 『山梨県立博物館研究紀要 2008 第2集』(山梨県立博物館 2008)pp.11-26
資料番号:0201396074 - 『山梨県立博物館研究紀要 2009 第3集』(山梨県立博物館 2009)pp.100-95
資料番号:0201515418 - 『甲斐路 第91号』(山梨郷土研究会 1998)pp.73-74,75-76
資料番号:0200563161 - 『日本の民俗 19』(第一法規出版 1974)pp.114-115
請求記号:K38/ニホ/19 資料番号:0101933992 - 『南中部の民間信仰』(大森 義憲/ほか著 明玄書房 1973)pp.42-43
請求記号:K38/ミナ/ 資料番号:0103488433 - 『狼の民俗学』(菱川 晶子/著 東京大学出版会 2018)pp.110-111,115-116, p.129,132,145,370
請求記号:388.1/ヒシ/ 資料番号:0107246225
※請求記号とは...本の背ラベルに書いてある数字や文字。本の分類などが示されています。
※資料番号とは...当館の資料1冊ごとにつけられた番号。バーコードに記載されている数字です。
調査にあたって
最初に山梨県立博物館の資料が見つかり、そこから調査範囲を広げることで、多数の参考資料を用意できました。上記の参考書は紹介した資料の一部です。各市町村誌に「三峯講」の解説が掲載されているなど、他にも参考になる資料がたくさん見つかっています。
なかでも『オオカミがいた山』には、平成15年に発見された山梨県笛吹市御坂町の民家に伝わるニホンオオカミの頭骨、オオカミ頭骨を使った魔除け、県内に残る神犬の御札などの写真が掲載されています。ぜひご覧ください。
作成日:2021年3月30日
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昭和31(1956)年ごろ甲府に15館の映画館があったらしいが、その名称、住所が知りたい。また、場所がひと目で分かるような当時の地図を見たい。
回答
『全国映画館名簿』ほか下記資料によると、昭和31年前後の映画館は16館確認できます(甲宝・名画座・松竹・シネマ・武蔵野・日活・電気・セントラル・スカラ座・甲南・南嶺・伊勢・国際・かぶと・ヒカリ座・オリオンパレス)。
名簿には14館の住所が掲載されていました。「甲府シネマ」と「甲府名画座」の掲載がなかったのは、前者は昭和31年10月、後者も昭和31年12月に開館したためと思われます。名画座は、『商工名鑑』によると橘町1番地(公園北)。シネマは、住所は確認できませんでしたが、甲府宝塚と同じ場所なので、宝塚と同じ住所と思われます。
オリオンパレス以外の15館の場所は、『甲府市住宅詳細図』で確認しました。(オリオンパレスは廃業のため掲載はなし)
調査プロセス
- まず、甲府市関連資料を調査しました。『甲府市史』(昭和39年刊)に「映画常設館」のリストがあり、14館(甲宝・名画座・松竹・シネマ・武蔵野・日活・電気・セントラル・スカラ座・甲南・南嶺・伊勢・国際・かぶと)が、住所はありませんでした。昭和21年開業のオリオンパレスは廃業、昭和26年開業のヒカリ座は本文にはあるがリストに載っていませんでした。『甲府市歴史ものがたり』では、昭和31年ごろ15館あったとありましたが、映画館名(町名のみあり)は16館記載されていました。
- 次に、映画関係を調査しました。『全国映画館名簿 昭和31年4月現在』『映画年鑑 1955』によると、名簿は14館、住所も記載されていました。
- 次に、商業関係の調査をしました。『商工名鑑 1957』(山梨県商工会議所)では甲府市内は11社。『商工名鑑 1961年版』(甲府商工会議所)では甲府市内は10社記載されていましたが、映画館名の記載ありませんでした。
- 次に、記載の住所をもとに山梨の地図調査をしました。1950年代の地図は所蔵がなく、『甲府市住宅詳細図 1961年度版』、『1963カレンダー入甲府市街図』で確認しました。廃業したオリオンパレス以外の15館の確認ができました。
参考資料
- 『全国映画館名簿 昭和31年4月現在』(全国映画館新聞社/編 全国映画館新聞社 1956)pp.112-115
請求記号:梅778.6/ゼン/1956 資料番号:0102562584 - 『映画年鑑 1955年 別冊』(時事通信社 1954)pp.44-46
請求記号:778/エイ/1955-2 資料番号:0101790061 - 『商工名鑑 1961年版』(甲府商工会議所/編 甲府商工会議所 1961)pp.175-176
請求記号:K67/コウ/1961 資料番号:0103517223 - 『商工名鑑 1957』(山梨県商工会議所/編 山梨県商工会議所 1957)pp.201-202
請求記号:K67/ヤマ/1957 資料番号:0101998169 - 『甲府歴史ものがたり』(甲府開府500年記念誌編集委員会/編集 甲府市 2019)p.304
請求記号:K297/コウ/ 資料番号:0101990083 - 『甲府市史』(甲府市史刊行委員会/編 甲府市 1964)pp.1868-1870
請求記号:K297/コウ/ 資料番号:0101945236 - 『甲府市住宅詳細図 1961年度版』(三洋堂/編 三洋堂 1961)p.7,12,15,17,22,27
請求記号:K297/サン/1961 資料番号:0101990083 - 『1963カレンダー入甲府市街図』(春光堂書店 1963)1枚
請求記号:Z7-1/1/ 資料番号:0400239729
※請求記号とは...本の背ラベルに書いてある数字や文字。本の分類などが示されています。
※資料番号とは...当館の資料1冊ごとにつけられた番号。バーコードに記載されている数字です。
調査にあたって
半世紀前は、甲府にも映画館が16館もあり、『全国映画館名簿』によると、甲府市以外にも県内に40館あったことがわかり驚きました。今より映画館が娯楽として身近なものだったでしょう。今空洞化が叫ばれる甲府市中心街のかつての賑わいも想像できますね。今はテレビやパソコンで気軽に見られる映画ですが、大画面での鑑賞は他には代えられません。
作成日:2021年3月30日
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「原爆を許すまじ」(浅田石二/作詞、木下航二/作曲)の歌詞・楽譜を探している。作詞の浅田石二(本名:河上増雄)は身延町出身。1955(昭和30)年の第1回原水爆禁止世界大会で歌われたらしい。
回答
『日本流行歌史 中』にタイトル「原爆許すまじ」で歌詞が載っています。また、『楽しく歌える愛唱歌集』にタイトル「原爆をゆるすまじ」で歌詞と楽譜が載っています。
調査プロセス
- 自館蔵書検索で、作曲者名、作詞者名、歌のタイトル、キーワード「原水爆」「平和」「うた」などで検索しましたが、手がかりはありませんでした。
- 作詞者が身延町出身であることから、「山梨日日新聞」データベースで検索。2015(平成27)年8月6日(木曜日)31面に、1番と4番の歌詞が載っていました。
- 原爆に関する詩集、平和運動に関する資料の棚を探すと、『日本民衆詩集』に歌詞のみ4番まで載っていました。
- 国立国会図書館サーチで検索するとヒット。当館で所蔵しているものはありませんが、図書館送信参加館内で公開されているデジタル化資料のうち、『うたごえ合唱曲集 第1』『青春歌集ピアノ伴奏曲集 第1集』「新女性 48号」に歌詞・楽譜が掲載されていました。当館の利用者用パソコンで閲覧できます。
- 4の検索結果から「合唱」「歌集」「伴奏」を手がかりに自館の棚をもう一度探してみると、歌詞・楽譜が掲載されている図書が見つかりました。
参考資料
- 『日本流行歌史 中』(古茂田 信男[ほか]/編 社会思想社 1995)p.246
請求記号:767.8/ニホ/2 資料番号:0102875929 - 『たのしく歌える愛唱歌集』(山本 芳樹/著 金園社 1977)p.719
請求記号:767/ヤマ/ 資料番号:0102056983 - 『うたごえ合唱曲集 第1』(渡辺 修/編 共同音楽出版社 1958)P.10
※国立国会図書館デジタル化資料 請求記号:767.4-W74u 永続的識別子:info:ndljp/pid/2487349 - 『青春歌集ピアノ伴奏曲集 第1集』(関 鑑子ほか/編 音楽センター 1956)pp.6-7
※国立国会図書館デジタル化資料 請求記号:767.6-Se123p 永続的識別子:info:ndljp/pid/2483343 - 『新女性 48号』(新女性社 1955)P.10
※国立国会図書館デジタル化資料 請求記号:Z051.7-Si4 永続的識別子:info:ndljp/pid/3555751
※請求記号とは...本の背ラベルに書いてある数字や文字。本の分類などが示されています。
※資料番号とは...当館の資料1冊ごとにつけられた番号。バーコードに記載されている数字です。
調査にあたって
作詞の浅田 石二(あさだ・いしじ)さんは、1932(昭和7)年生まれ。身延高校卒業後に上京。1954(昭和29)年の第五福竜丸事件を機に「原爆を許すまじ」を作詞しました。平和への願いを込めて作られたこの歌は、1955(昭和30)年8月に広島県で開かれた第1回原水爆禁止世界大会で歌われて以後全国に広がり、現在まで歌い継がれています。
国立国会図書館サーチは、楽譜集の目次が多数入力されていて、タイトルや作曲者名等から検索することができて便利です。また、国立国会図書館リサーチナビの調べ方案内では、曲名索引がある資料、楽譜が検索できるWebサイトなども紹介されていて役に立ちます。
作成日:2021年3月30日
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甲府駅はいつまで「かふふ」と書かれていたのか。
回答
中央線が甲府まで開通したころ(明治36年)から、駅名標は「かふふ駅」と表示されていたので、市民からは分かりにくいとの意見があがっていました。1946(昭和21)年11月16日、内閣告示32,33号により、現代かなづかいが制定され、駅名の表示も、それに即して順次書き換えられていきました。甲府駅もそのころから、「かふふ」から「こうふ」と書かれるようになったようです。ただ、実際に駅名標が変更された日付はわかりませんでした。
調査プロセス
- 地域資料「鉄道」「交通」「運輸」に関する資料を調査をしました。「かふふ」と書かれていたことは確認しましたが、変更日はわかりませんでした。
- 『甲府市史』など甲府関係の資料を調査しました。変更日は分かりませんでした。『甲府市史 別編3 甲府の歴史』p.340に中央線開通当時からプラットホームの駅名は「かふふ」だったとわかりました。
- 鉄道に関する資料を調査しました。変更日は分かりませんでした。『停車場変遷大事典 国鉄・JR編1』pp.49-50に、「文部省や法務省の、国語表記に関する政策が、駅名の表記(漢字・かな)と密接に関係している。」とありました。1946(昭和21)年11月16日の、内閣告示32,33号により、現代かなづかいが制定されています。
- 当時の新聞を調査しました。変更日は分かりませんでした。『読売新聞』1946(昭和21)年11月7日2面「驛名も左書き 新かなづかい」、『山梨日日新聞』1946(昭和21)年11月8日2面「驛名の書替費 なんと八十万圓 「かふふ」も「こうふ」」という記事がありましたので、このころ変更されたのではないかと考えられます。
参考資料
- 『山梨日日新聞 1946(昭和21)年11月8日』2面
- 『読売新聞 1946(昭和21)年11月7日』2面
調査にあたって
駅名が「かふふ」駅と書かれていたことはすぐ確認できました。いつから「こうふ」となったかもすぐにわかると思いましたが、最後まで見つかりませんでした。当時の全国紙にも掲載されるくらい大きな変更だったので、とても残念でした。ただ、身近なニュースを知らべるときは、新聞記事が役に立つことが実感できた調査でした。
作成日:2021年3月30日