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2020/10/30 甲府第一高等学校で出張トークを行いました

 令和2年10月30日(金曜日)、甲府第一高等学校で出張トークを行いました。1,2年生、約500名に「ことばの再発見 ~日本語を見つめ直す~」と題して講演を行いました。落ち着いた雰囲気の生徒達に、時折問いを投げかけながら、言葉の持つ役割、日本語の特徴などについて話しました。


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(話をする館長の様子)
  


 今年はみなさんもコロナ禍で大変だったと思う。せっかく高校に入学したのに入学式もなかったし、クラスも始まっていなかったし、いまだに家でリモートの授業を受けたりしている。リモートの授業はテレビの通信教育みたいなものだから、やっぱり面白くない。教師の側もつまらない。実際に生徒の顔を見て話すのはとても嬉しい。情報を伝えるだけならリモートで困らないはずであるが、こうやって一緒の空気を吸ってお互いの顔を見ながら、体温を感じながらやる授業は全然違うものである。

 昔のお釈迦さまや孔子、キリスト、ソクラテスが話をする時には、弟子達が回りに集って、話を聞いていた。そうやって、「ああそうなんだ」と思いながら教えてもらうと、教える人のオーラみたいなものがビンビンに伝わってくる。そういう状況下でないと人は本当に影響されない。こういうことはリモートでは実現できない。

 お父さん、お母さんが常に離れていて、テレビ電話から子育てしても、子どもは育たない。やっぱり、傍にいて抱っこしたり、触ってくれたりしないと人は成長できない。友達同士でも、メールとか電話とかではつまらないし、会わないといけないんだろうなという気がする。そういうときに言葉が役に立つ、今日はそういう話をしたい。

 自分の出身高校は、自由な雰囲気がありやさしい高校だったが、ほとんど学校に行っていなかった。朝、ちょっと顔を出して、あとは抜け出して新宿に行っていたが、ホームルームの時間には帰ってきていた。修学旅行にも行かなかった。まして文化祭などは嫌いだった。その期間はひとりで旅行していた。大人になってから同級生の集まりに呼ばれて行ったら、だれも自分のことはほとんど憶えていなかった。

 若いときにはつらいと思うこと、そういう時期があると思う。年を取ると分かるようになる、楽になると言う大人がいたが、本当にそうなった。今皆さんが悩んでいることも、30歳くらいになると当時は若かったんだと思い、当時のいやなことが馬鹿々々しく思えるようになる。それは、今の自分の方が成長しているからである。

 教育はその時々によって変わる。文部省の意向によって時代によってどんどん変わっていく。戦争時には、国のために死ぬということがとても大事なこととされたが、それは兵隊さんになって人を殺しに行けという意味である。国の命令で人を殺せという教育をされていた。みんな同じ考え方で、ヒトラー、毛沢東万歳となっては困る。

 だから、自分で考えて判断してこれが正しいということを、社会が何と言おうと個人個人がそれぞれの見解を持つことが大事である。実は、正しい答えはない。世の中には答えの無いことが多い。センター試験やクイズ番組には答えがあるが、どんなに頭のいい人にも分からない答えがある。自分で考えて自分で判断して表現できるようになってもらいたい。このことがとても大切である。

 こういうことを言うと先生達に怒られるが、努力は裏切る。本当の努力は、努力ではない。卓球の愛ちゃんはきびしく指導されても卓球をやめられなかった。傍から見ていると努力しているように見えるが、愛ちゃん自身は、やりたくて好きだからやめられない。

 やりたいことを見つけられた人が成功する人である。イチロー選手は好きで野球をやっている。持続する志でも探究心でもない。どうしても諦められないということ。日本人のノーベル賞受賞者の話を聞くと、やりたいから好きなことをやっただけだと言う。結局、運である。でも肝心なことは、自分の好きなことを見つけられるかどうかだ。そういうことを"グリット"という。

 モーツァルトはどうしても音楽がやめられなかった。ピカソはどうしても絵を描くことがやめられなかった。そういう人は運さえよければ成功する。努力していると思ってやっていると実はあまり伸びないという気がする。いやだけれどがんばるんだと思って無理矢理やっていると、ある程度までは行くがそんなに成功はしない。

 校長室に飾ってある石橋湛山(甲府第一高校出身者)揮毫の額を拝見させてもらったが、そこに札幌農学校クラーク博士の「Boys, be ambitious!」の言葉があった。おそらく、博士が学生達に「君たち、希望があるか?」と聞いてみた時に、彼らは「決まっていない」と答えたに違いない。たぶん、在学した新渡戸稲造も同じではなかったか。

 日本人は謙虚でなくてはならないと教えられているので、大きな希望、野望を抱くこと、大言壮語を日本人は恥ずかしいことだと考えていた。アメリカ人は文化が違う。なにせアメリカンドリームの世界で育っているから、謙虚なおとなしい学生は博士から見たら、なんて意気地のない学生だと映った。その後、日本は大志を抱いて帝国主義政策を進めた。そういうことを皆さんには考えてもらいたい。良い子でそのまま受け取るのではなく、まず教師の言うことを疑ってもらいたい。自分で考えてもらいたい。

 言葉の話に戻ると、この中にも英語の好きな人がいると思う。現在は自動翻訳機ができてきて、英語が喋れなくても翻訳機があれば用が足りてしまう。機械の翻訳では心が伝わらないという人がいるが、そんなことはない。機械だから心が通じない、人が喋るから通じるとは言えない。充分に伝わる。機械もどんどん翻訳が上手になり進歩している。

 そうなると英語の勉強は要らない。電卓があれば割り算、掛け算は要らないと同じことである。日本人同士が日本語で話していても時にはケンカになる。まして英語で話せば心が通じるとは思えない。その分、もっと違う勉強をしたほうがいいと思う。

 これからの世の中、英語を学習することは本当に必要なのか、学習する意味は何なのか、ちょっと考えてみてもらいたい。自分は外国語を勉強する意義はあると思う。どういうことかというと、言葉というものは、その人の考えを伝えるものであり、考えることができるのは言葉があるからである。地球上には様々な言語があるので、それぞれの言語で色々なことを考えられることが分かる。

 英語がどういう構造になっているのか、また、例えばフランス語では、「どうして」と言う場合、「何のために」、「どういう原因で」という二通りの考え方をする。こういうことは自分で言語を勉強しないと分からない。

 日本語では、例えば「机の上にコップがある。床にほうじ茶が置いてある。ハンカチが床に落ちている。」という言い方をする。英語ではすべて「ある(there is)」で済むが、日本語では面倒くさい色々な表現がある。どちらがいいのか。このようにそれぞれの言語の中の世界をみることで、例えば日本語と英語ではその世界が違うことが分かる。世界中にはいろいろな形でのものの見方がある。それを知ることが外国語を勉強することの意味である気がする。ひとつの可能性として、私たちは日本語という中に閉じ込められているようなところがある。それこそ、井の中の蛙大海を知らずと言うように。

 皆さんは日本語に関しては、お母さん、お父さんが喋っているのを聞いて、いつの間にかできるようになった。そういうことを「学習」ではなく「獲得」、「暗黙知」ともいう。習っていないということ。英語は学校で習っていて、be動詞の変化などを習う。日本語では、「友達がいる」、「試験がある」と言うように「ある」と「いる」を使い分けなくてはならない。甲府駅のホームに特急あずさが「いる」、「ある」、どちらが正しいか。自分が日本語の教師として言うと、正解は無い。皆さんは日本人で日本語を母語としているので、その人の答えが正しい。国語の教師はどれが正しいかは決められない。言葉はそうなっている。皆さんの判断が正しいことになる。

 この間、「外出自粛」という言葉がはやり、テレビで戸越銀座商店街に買物に来ているおばあちゃんに聞いたら「外出自粛だからここに来た」と言っていた。そのおばあちゃんにとっては外出ではない。また、「不要不急」の時とはどんな時か。正しい答えがどこかにあるわけではない。言葉というものはそういうものである。数学の問題のように自分で考えなくてはいけない。自分で考えられるようになることが大切である。

 成長するとか、大人になるということは、分からないことが自分の中でどんどん増えて積み重なっていくこと。優柔不断、不得要領というか、そういうものの中で生きていくこと、それを我慢できることが大人になるということである。変に新しい答えに飛びつかない方がいい。何か目立つような言葉などはだいたいインチキ、うそである。危なっかしくてしょうがない。自分で考えて、答えがなくても仕方がないなあーと思い、じっーと我慢する。

 それが大人になるということだと思う。


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(会場の様子)