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2019/11/23 身延町総合文化会館で出張トークを行いました

 令和元年11月23日(土曜日)、身延町総合文化会館にて、館長出張トークを行いました。約70名の市民の皆様に、「言葉発見! 金田一秀穂先生のおもしろ日本語ゼミナール」と題して話しました。小学校低学年生からご年配の方まで楽しそうに熱心に耳を傾けていただきました。


話をする館長の様子(話をする館長の様子)
  

 書くことは考えることである。考えるための手段として書くということ。たぶん、日蓮さんでも、お説教しながら考えていたと思う。大江健三郎、村上春樹、ドストエフスキー、トルストイなどはどうしてなんなに長い小説を書くのか。それはたぶん、書き初めは、唯々書きたいだけで、それが書いていくうちに自分が考えていることが分かってくる。大抵の人は書き終わってから、こういうことを書きたかったのかと分かる。文字にすると考えがモノとして離れていく。言葉を重ねることで自分の考えや感じたことがクリアーになっていく。言葉にするとはそういうことである。何かを考えるために言葉を使う。

 読書の話をすると、本は是非本屋さんで買って読んでもらいたい。図書館で借りてもいいが、本屋さんと競合したくはないし、町の本屋さんはとても大切である。その地域の文化的な中心になっているのでなくなってはいけない。文化の衰退につながる。

 最近読んだ本を紹介すると、『神々の明治維新』(安丸良夫著)が良かった。廃仏毀釈で、以前はお寺だったものを神社に変えなければならなかった。お寺さんはどう思ったのかというようなことが書かれている。明治になった時に政府が、国民の心をどうケアしていったらいいかを思案し、天皇を中心にして国民の心をひとつにしたいと考えた。それまでは、天皇は仏教などといろいろな関わりを持っていた。お寺もやるし神道もやる。ここ身延町の久遠寺を開山した日蓮さんは皇室(後光厳天皇、大正天皇)より諡号を贈られたと聞いている。

 私たちが考えている神道は明治政府が作った国家神道と言われるものであり、150年の歴史しかない。伊勢神宮に入ったのは明治天皇が最初であり、ごく最近のことである。

 神道以前に民間信仰があった。『先祖の話』(柳田国男著)がある。東京には神田明神があり、平将門を祭っている。それは、天皇に反逆した将門の怨霊が恐いから怨霊を退治するためである。民間信仰が神道とは別に存在した。神道以前にあった、例えば富士山などの自然に対してみんなが持っている信仰、そこに仏教が入り明治になって神道ができた。日本の歴史はそう簡単には表現できない。

 お彼岸や13回忌などは宗教の都合でできている。自分は祖父の50回忌をと言われ、そんなのいやだと思ったが、柳田国男氏によれば、先祖を祭る心は我々が元々持っていたもので、それを仏教が取り込んだにすぎないということである。柳田氏が書いたのは昭和20年の終戦の頃で、戦地で死んでいった若者たちの魂はどうなるのかを考えた。この本を書いた原因の一番大きなものはこれだった。

 「大器晩成」は老子の言葉だが、最近わかったこととして、正しくは「大器免成」という。 B.C.350年くらいに老子の本が作られた。B.C.200年くらいに作られた馬王堆漢墓が発見され、帛書に「大器免成」と書いてあった。大器は完成しないという意味である。

 80歳の時に「富嶽百景」を書いた葛飾北斎は、90歳の時に「あと10年生きていたら、もっと絵が上手になるのに」と言って死んだそうである。"もっと、もっと"という志向、これが大器である。ルネッサンスの天才ミケランジェが、最後(89歳)まで製作を続けたが完成しなかった彫刻「ロンダニーニのピエタ像」がミラノにある。高田博厚(彫刻家、思想家)は「世界中の彫刻が滅んでもピエタ像が残っていればいい」と言った。完成できない、大器とはそういうものである。皆さんも完成していない。やはり、勉強は続けざるを得ない。

 この間、賞を取ったラジオの番組が沖縄戦の話だった。中学3年の生徒が兵隊として招集され作戦本部に行かされた。そのうち司令部から陥落の連絡があり、他の隊員と一緒に逃げ状況が分からないから洞窟に隠れていたら、戦争が終わったので投降を勧告しに日本兵が来た。そうしたら、一緒に隠れていた人がその人をスパイだと疑って殺してしまった。日本人が日本人を殺した現場を見て同胞を殺す戦争とは何なのか、悩みながら生きてきた。殺された、死んだということは言えるが、人を殺した経験は堪らない。人を殺さなければならない方がよっぽど辛くきつい。戦争の恐さである。

 近年、AI、ロボット技術が進歩している。戦争がいやだということを分かっている、人を殺すことをしたくない人達はロボット、ドローンなどを使うようになってきた。 AIの話をすると、病院に行っても医者はモニター、数字しか見ていない。検査の結果しか見ていないし、そういうことしか言わない。聴診器も持っていない。それだけだったら医者は要らない。

 これからは、日本語や英語の教師は失業する。語学教師は要らなくなり、語学を勉強する必要がなくなる。自動翻訳機ができているから。小学生が英語を勉強すること、はっきり言って無駄だと思う。英語と言うよりは、異文化を勉強することの方が大切であり、外国の人が自分達と違うことを考えている、そういうことを知っておく経験は必要である。

 また、道徳・倫理より哲学を教えるべきであると思う。道徳には価値観が入ってくるが、それは時代によって変わってしまう。これからどんな時代、国になるか分からないので、その時に対応できるような能力を身に着けてもらいたいからである。物事を考えるための方法で、問題をどのように捉えたら解決できるかを考える技術、手段ということ。どんなところにいても通用する人間になってもらいたい。フランスでは哲学、論理学を教えている。英語に重点を置くよりその空いた時間でするべき、教えるべきことはたくさんあると思う。

 古事記、風土記、万葉集、古今和歌集といった古典を読むことはとても大切である。やさしく読める形のものがあればいいが、例えば、池澤夏樹氏の『現代語訳古事記』は読み易い。橋本治氏の『枕草子』など有名なものもあるが、変に古文で読もうとするから抵抗があり、みんないやになるのかもしれない。原文で読むことを薦める人もいるが、自分が面白いと思ってから原文に当たればいい。

 自分が好きな本に大岡信氏の『折々のうた』がある。読んでいたら、このまま生きていていいか、日本ていいなあと思った。

 便利になることはいいことなのか。AIや技術の進歩そのものはいいことだが、果たして 私達を幸せにするのか。リニアモーターカーは甲府から品川まで15分位で行けるが、やはり時間を掛けて身延にやって来るような、多少不便でも人間的であるほうがいい。幸せになることと便利になることが逆転している。私たちの心の中には、"交換の原理"ではなく、便利さを追い求めるのではない"贈与の原理"ギフトがある。

 その例として、お金ではないこと、子どもを育てることがある。やりたくてやっている。イチローはヒットを打ちたくてやっている。一般的には、医者も教師も人に喜んでもらいたくてやっていて、贈与の原理が行動の原理となっている。AIはこれを認めない。どうしたら勝てるか、便利になるかだけを考え、スピード、お金を追求する。「情けは人のためならず」と言い、人にかけた情けはいつか自分に返ってくるという。何となく功利主義的だが、ボランティア精神でやって感謝してもらう。こういうことでこれから生きていけばいい。 農業は何か違うということを感じている。大地から自然の恵みで作物を作ることは、何か特別の喜びがあるのではないか。また、食べるということが必要だから、農業は存続すると思う。世の中には、いろいろな本があるので読んでもらいたい。図書館にもたくさん蔵書があるので来て読んでもらいたい。

 



会場の様子(会場の様子)