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2019/7/30 県学校図書館司書夏季学習会で出張トークを行いました

 令和元年7月30日(火曜日)、県学校図書館司書夏季学習会(県男女共同参画推進センターぴゅあ総合)で出張トークを行いました。県内小中学校の図書館司書の皆さん約150名を前に、「学校図書館へのメーセージ」と題して講演を行いました。ユーモアを交えた楽しい話に聴衆の皆さんは熱心に耳を傾けてくださいました。


話をする館長の様子
(話をする館長の様子)
  

 自分が小さい時から本はとても身近なところにあった。家にはたくさんの本があったので図書館にはあまり行かなかった。 小学校2、3年生の時、病気で入院していて学校には行っていなかった。病院ではラジオを聞くか本を読むしかなかったので、いつも本を読んでいた。父(春彦)が遠くの仕事の帰りに病院に来て、週刊誌(週刊文春、サンデー毎日等)を置いていった。自分はその週刊誌を読むのが面白かった。4年生になって退院したら、みんな読書感想文を書いていた。自分は読書量が多かったので平気だと思っていたら書けなかった。それは、推薦図書がつまらなかったからである。そういう本には多くの場合、うそっぱちばかりの物語が書いてあり、幼稚過ぎて面白く思わなかった。当時、一番好きだった本は汽車の時刻表、地図帳、年表、人名辞典、百科事典などである。これらの本には本当のことが書いてあるから楽しかった。

 自分の病気の治療に有効だとされる温泉を調べたら、全国に2か所増富温泉と下部温泉しかなく、そこにはどうしたら行けるか調べたりしていた。どこで降りて、何を食べるかなど考えて、そういうイマジネーションを膨らませられるものが好きだった。 国語教育の話をすると、娘は国語が苦手で学校で自分の考えを書くように言われて書いたら30点だった。こういう時には、自分の考えではなくこの本を読んで先生がどう思うか先生の意見を書くということ。そうしたら60点もらえた。日本では、教師の考えをコピーすることに長けた人間が一番良い成績を取り、そういう人間が出世してエリートになれる。自分はこの辺の要領が分かっていたので、時にはわざと先生を怒らせようと思い、違ったことを書いたりした。

 現在、大学で学生に論文の書き方を教えている。書き方としては、最初に結論があって その後、その理由を書くことがあるがそれでは面白くない。書くことは考えることであり、書くことによって考えをまとめて言葉に変えていくことである。自分が何を考えているのかが分かり、頭の中だけに留めておくのではなく"外在化"させる。そういう意味で作文は人間にとってとても大切なことで、とても良い教育である。

 大岡信氏(詩人)は、「自分が当初考えていたこととまったく異なる結論になるくらいでなければ書く意味がない」と断言している。

 先週、仕事で沖縄に行って来た。当時14歳で招集されて通信兵をしていた人の話を聞いた。終戦間近に連隊が壊滅して逃げ回り、最後に洞窟で身を潜めていた時に戦争が終わったから出てこいと言われたが、一緒の大人たちはその人がスパイだと考え殺してしまった。

 戦争の不幸をたくさん聞くが欠けていることがひとつあって、それは相手を殺した話である。ベトナム戦争や中東地域の戦争に行って敵兵を殺し、多くの兵隊が精神異常をきたした。日本では先の戦争でそういう加害者としての話を聞いたことがない。そういうことを少しは知っておいてほしい。いつも被害者意識からの話である。加害者側からの話を知らないからまた戦争をしようという人が出てくる。

 作家の鶴見俊介氏が、子どもに「自殺はいけないことか」と問われて、「たったひとつだけいい時があり、それは人を殺さなければならない時だ」と答えている。

 議論をしないから戦争を始めたときに他の道を考えることができなかった。それは教え込まれた力が染み込んでいて騙されていたとか愚かだったと簡単に済ませてしまう。次代を担う子どもたちには、もっと違うことを自分で考えてもらいたい。さまざまな考えがあって結論があることを子どもたちに教えてあげたい。最近の学生は素直だと思うが、自分で考えることができないと危なっかしい。学校には文科省からの通達に基づいた強化、科目があるが、図書館は教室とは違うことを考えられる独立した自由な空間であってほしい。図書館にはいろいろな本があるので本を読んで知ってほしい。本には様々な事を考える材料があるので、自分で考えられるようになれる基礎づくりをやってもらいたい。建前だけで言っているところがあるが、もっともっと風通しのいい場所であってもらいたい。   

 今はいろいろな情報が溢れていて学生達は何を信じたらいいのか分からなくなっている。まず、否定しろ、疑えと言っている。最近の若者は考えることを面倒くさがっている。考えることの喜び、楽しさ、面白さを知ってほしい。考えることによって「分かった」という解決が出てきて頭の中に"内在化"する気がする。考えた途端に調べて「知った」という形で終わってしまう。知るということは何でもない。大学時代に学友から「会津八一の雅号は?」と聞かれたことがあるが、今ならインターネットで調べればすぐ分かる。そういうレベルの知識は必要なくなっている。幸田露伴、二葉亭四迷、田山花袋等々、文学史の年表の一部分として知っているにすぎない。樋口一葉は面白いという人が多いが、実際に読まないとわからない。ついつい知識だけで終わっていて危なっかしい。薦める、ガイドする立場としては、もっと知識を血肉化しておかないといけない。

 内田樹氏(文学者)がこれからの指針、何を信じたらいいのかを考えるときに、だれかいい人を選ぶよう書いている。ちょっと前まで自分の世代には、例えば安部公房氏、鶴見俊介氏などがいた。今はどういう人がいいか分からないが、この人がスタンダード、本物だと言える人、そういう人を探し出すことが大切だと思う。 偽物が多すぎるが、それを指し示すことができるのは皆さんである。学校の教師ではないと思う。図書館の司書ならこれおかしい、もっと違うことや他の意見があることを教えられる。自由な立場を使って考えることをさせてやってもらいたい。

 





会場の様子
(会場の様子)
 最後に感想や質問がありました。「今の子どもたちは自分で考えることをしないという指摘は、私達も常々思っている。図書館は様々な考えがあっていい場所、子供の心を揺さぶるような本に出合わせる司書でありたいと思った。」、「先生のユニークな話の中に確固たる哲学を聞かせてもらった。図書館は教室とは違い独立としての場であり、本のガイド役としてこんな本もあるねと言ってやれるようになりたい。」といった感想がありました。
 また、「本物と偽物という話しがあったが言ってみれば偽物が多いという気がする。 選書する段階で偽物が増えてきてしまうがどう考えたらいいか。」といった質問が出ました。
 それに対して館長は、「例えば『飛ぶ教室』や『君たちはどう生きるか』などがあるが、それよりも古くならない本がいい。例えば、柳田国男の『遠野物語』など。あと、いつの時代でも正しいと思うものとして古典がある。大人も騙されないように読むことができる。近松門左衛門も面白い。江戸時代の『しんとろとろり』という表現、その辺の感覚は現代的であり時代を超えている。そういう本物に触れてもらいたい。海外の本では、翻訳者のいい人のものを選ぶ。例えば『ドリトル先生航海記』は井伏鱒二が翻訳していて、日本語がじょうずな人が手掛けたものは質が全然違っていて言葉として本物である。 谷川俊太郎氏(詩人)の『スヌーピー全集』の一連の翻訳もすばらしい。きちんとした日本語を使える人の本を読んでほしい。その意味では、谷川氏は今生きている日本人では最も優れた人だと思う。『どうしたらそんなにいい言葉が使えるのか』と聞いたら、『正直であることかな』と言っていた。いい日本語の本に触れさせてもらいたい。」と返答しました。