甲州方言の「かさんまい」について知りたい。
回答
「かさんまい」とは、「かたつむり」のことである。南都留郡や南巨摩郡地域で使われている。なお、県外では、神奈川県、静岡県の地域でも言われている。『山梨県言語地図集』によると、県内の「かたつむり」の方言は、「ジットゥバットウ」北巨摩郡、「ダイロ」塩山、「マイマイ」大月、「ミャーミャー」大月、「メメンジョ」甲府、中巨摩郡、「モモーズ」北都留郡など多くの言い方がある。
キーワード
■甲州方言■山梨方言■かたつむり
調査過程
- ■方言関係の資料で「カサンマイ」を検索したところ、『甲州方言』などに記載があり、「かたつむり」であることがわかった。
- ■「かたつむり」の呼び名で郷土資料、一般資料で調べてみた。方言関係、生物学関係で掲載があった。
参考資料
- ◆『甲州方言』(深沢泉著 甲陽書房 1979)
- ◆『山梨県方言辞典』(羽田一成著国書刊行会 1976)
- ◆『山梨県言語地図集』(永瀬治郎編 専修大学出版局 1988)
- ◆『全国無脊椎動物地方名検索辞典 北日本編』(太平洋資源開発研究所編 生物情報社 2006)
- ◆『蝸虫考』(柳田国男著 創元社 1943)
調査にあたって
「かたつむり」のことであるということがわかったので、他の地域での呼び名も関連して探してみた。その結果山梨県内だけであっても「かたつむり」の呼び名は非常に多くの言い方があることがわかった。また、隣接する近県でも同様な言い方があり、地域どうしの交流があったことがよくわかった。
また、甲府、中巨摩郡等で使われている「メメンジョ」という呼び方は、『山梨県方言辞典』をはじめ、「ミミズ」の方言としている資料もある。似ていないミミズとかたつむりがなぜ同じ呼び方をするのか調べてみるのも興味深いと思う。
作成日:2011年7月15日
解体された甲府市役所の敷地には昭和初期まで県庁があったそうだが、そこに甲府市役所が移ってきたのは戦後と聞いた。その間、どんな施設があったのか?
回答
敷地の南側には、昭和6(1931)年に建てられた甲府郵便局舎が、敷地の中央付近には昭和13(1938)年に建てられた甲府市水道庁舎があった。
県庁が現在地へ移転したのは、昭和5(1930)年。敷地は分割されて、甲府郵便局や甲府市などに売却された。甲府郵便局舎は戦災も免れ、昭和50(1975)年、甲府郵便局の移転により甲府市へ売却された。以降、平成22(2010)年に解体されるまでの35年間は、甲府市役所の4号館として活用された。水道庁舎は、戦災で相生にあった甲府市役所が焼失したため、昭和20(1945)年から甲府市役所としても使用された。以降、増床増築を繰り返しながら使用されたため、ムカデ庁舎と呼ばれた。昭和36(1961)年に、敷地内に甲府市役所の新庁舎が完成した後も、西庁舎として使用されたが、平成7年に取り壊され、駐車場になった。
キーワード
■甲府郵便局
■水道局庁舎
■甲府市役所
■甲府市庁舎
調査過程
- ■県庁と市役所の両方があったことから、山梨県関係資料と甲府市関係資料の両面から調査を行う。県史、市史にも記述があるが、解体前に作成された調査報告書、『重ねた時の記憶を留める 甲府市庁舎1~4号館調査報告書』(山梨建築設計監理事業協同組合 2010年)に詳細な記述があった。
- ■上記資料に甲府郵便局に関する記述があったので、郵便局関係の資料を調査したところ、『甲府郵便局八十年誌』(甲府郵便局八十年誌刊行会 1955年)に県庁跡地に郵便局舎を建設した経緯の記述があった。
- ■建物の様子を当時の甲府市街図(住宅地図等)や写真で確認。戦前の地図を調査したところ、昭和12年に出版された『甲府市地籍地図』(秋山峯太郎/編・製図 飯沼重吉 1937)があったが、甲府郵便局の他には、大きな建物は確認できなかった。また、当時の写真資料を調査したところ、『甲府物語』等に、戦前戦後の市役所、郵便局付近の写真を確認することができた。
参考資料
- ◆『重ねた時の記憶を留める 甲府市庁舎1~4号館調査報告書』(山梨建築設計監理事業協同組合 2010年)
- ◆『甲府郵便局八十年誌』(甲府郵便局八十年誌刊行会 1955年)
調査にあたって
甲府市の施設や道路の移り変わりは1960年頃までは住宅地図で細部まで調査することができる。
また、回答には直接結びつかなかったが、利用者は、昭和時代の甲府中心部の写真を興味深そうに眺めておられ、様々な思い出がよみがえったように見受けられた。
作成日:2011年6月1日
戦前の相生小学校で、裸で色めがねをかけ保健室でうすい青紫色の光を放つ太陽燈を浴びたことがあったが、何のために行ったのか。
回答
戦前発行の学校保健に関する本『学校衛生概論』によると、太陽燈(人工高山太陽燈)の効能は、虚弱児童の体力増進、皮膚疾患の治療に有効とある。ただし、紫外線の照射の量や距離によっては有害な結果を招くおそれがあるので校医の監督のもと慎重に行うように、とも書かれている。また、『甲府教育百年史』に、相生小学校では1932(昭和7)~1933(昭和8)年ごろ太陽燈を購入し、太陽燈室に虚弱児20人ずつ入って20分間保護眼鏡をかけて太陽燈に浴した、とあった。
キーワード
■太陽燈■紫外線■学校保健
調査過程
- ■郷土資料室の教育関係の資料を確認する。
- ■『甲府教育百年史』(田中憲著 甲府市教育委員会 1965)に相生小学校での太陽燈の使用の記載があったが、効能については書かれていない。
- ■インターネットで検索すると、東京の麹町小学校での事例がみつかる。全国的なものか。
- ■一般資料の学校保健、公衆衛生の歴史についての資料にあたるが、みあたらない。
- ■戦前に発行された当時の学校保健の資料を確認する。
- ■『学校衛生概論』(岡田道一著 中和会事務所 1934)に「人工高山太陽燈」の項目があり、紫外線の効能について詳しく書かれている。
- ■『学童保健読本』(柳沢信賢著 実業之日本社 1939)の「日光浴と紫外線」の項目に、太陽燈については記載がないが、紫外線の効能(病気の予防、殺菌作用など)について記載あり。
- ■『学校衛生と救急法』(岡田道一著 明治図書 1929)に麹町小学校の「日光浴室」の記載あり。虚弱児童の疾病予防、一般児童の健康増進のためとある。
参考資料
- ◆『甲府教育百年史』(田中憲著 甲府市教育委員会 1965)
- ◆『学校衛生概論』(岡田道一著 中和会事務所 1934)
- ◆『学童保健読本』(柳沢信賢著 実業之日本社 1939)
- ◆『学校衛生と救急法』(岡田道一著 明治図書 1929)
調査にあたって
郷土資料で事実の確認はできたが、効能については記載がみあたらなかったので、一般資料の当時(戦前)発行の資料にあたってみつけることができた。普段は手にとらないような古い資料が役に立った。現在では紫外線は有害なものというイメージが強いが、当時は基本的に健康に良いとされていたことも興味深かった。
作成日:2010年3月14日
明治頃、東八代にあったカンザワ中学校について知りたい。正確な学校名はよくおぼえていない。
回答
寒山(かんざん)学校:旧一宮町国分の長寿院を教場として開設された私立学校。1906(明治39)年に私立学校の許可を得、1944(昭和19)年頃まで開校していた。校長は住職の前田定運氏。号の寒山から寒山学校と命名した。高等小学2年修学程度の学力を有するものを対象とし、英語、漢文、数学、地理、歴史、農業を教授した。1907(明治40)年10月、有志者の寄附金により2階建て校舎を新築移転。1908(明治41)年7月より本科3か年を2か年とし、3学年を専攻科とした。
キーワード
■寒山■前田定運■長寿院
調査過程
- ■学校の名称は不明確で、「神」の字がつくと思うとの話を念頭に意識しながら、『山梨県教育百年史 明治編』(山梨県教育委員会 1976)を調べるがそれらしい記載なし。
- ■地域を限定し、東八代郡の各町誌を見ても見つからなかったが、『御坂町誌』(御坂町 1971)に「私立寒山学校」の記載がある。
- ■『東八代郡誌』(山梨教育会東八代支会 1914)、『一宮町誌』(一宮町 1967)、『山梨県教育百年史 大正・昭和前期編』(山梨県教育委員会 1978)などにも「寒山学校」の記載はある。
- ■利用者に確認すると、これらしいとのこと。
■『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)にも記載あり。 - ■インターネットで検索すると笛吹市一宮町の長寿院のホームページに「寒山学校」の紹介ページ(http://www3.ocn.ne.jp/~nagai/kanzan/kanzan.html)がある。
参考資料
- ◆『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)
- ◆『山梨県教育百年史 第2巻 大正・昭和前期編』(山梨県教育委員会 1978)
- ◆『一宮町誌』(一宮町 1967)
- ◆『御坂町誌 本誌編』(御坂町 1971)
- ◆『東八代郡誌』(山梨教育会東八代支会 1914)
- ◆『一宮村文教史』(水上文淵 1925)
- ◆『いちのみや ふるさとライブラリー』(一宮町立一宮中学校PTA 1989)
- ◆『山梨人事興信録 第二版』(甲府興信所 1928)
調査にあたって
長寿院のホームページからは、卒業生が建てた1937(昭和12)年の謝恩碑や1991(平成3)年の謝恩碑説明看板についても見ることができた。
作成日:2009年10月10日
烽火(のろし)の古い絵図が見たい。武田信玄が通信手段に使っていたというのを聞いたことがあるので、その関係の資料にないだろうか。
回答
武田関係の資料にはないが、江戸中期の百科事典『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』に古い烽火の絵がある。
キーワード
■のろし■篝火■通信■信玄■兵法■
調査過程
- ■郷土資料の『烽火台をたずねて』(小泉義幸/著・発行 1978)を確認するが、絵はなし。
- ■山梨県の城に関する資料『山梨県の中世城館跡』(山梨県教育委員会/編 山梨県教育委員会 1986)『定本山梨県の城』(萩原三雄/責任編集 郷土出版社 1991)などを確認するが、烽火の絵はない。
- ■武田信玄の関係資料の、主に図や絵の多い資料や、兵法関係の資料にあたる。
- ■『武田信玄城と兵法』(上野晴朗/著 新人物往来社 1986)に飛脚篝火(ひきゃくかがりび)についての説明などはあるが、図はなし。
- ■『甲陽軍鑑大成』第3巻索引編(酒井憲二/編著 汲古書院 1994)で「のろし」をひき、本文編の該当ページを確認するが、図はない。
- ■インターネットで「のろし」「図」などで検索し、「須玉歴史資料館」のサイト内「烽火(のろし)武田氏の通信ネットワーク」のページ(http://meiji.stm.ne.jp/rekisi/sutama/norosi.html)をみつける。その中の説明で「『甲陽軍鑑』には武田氏の軍法の通信方法の一つとして飛脚篝火の名で紹介されているが、具体的な構造や上げ方などの記述のある武田時代の記録はない」とある。また、図として「和漢三才図会」の絵が紹介されていた。
- ■当館所蔵の『和漢三才図会』4(寺島良安/著 平凡社 1986)『日本庶民生活史料集成』第28巻(谷川健一/[ほか]編集 三一書房 1980)で烽火の絵を確認。
- ■利用者へ、信玄関係の資料ではないが『和漢三才図会』という江戸時代中期の百科事典に烽火の絵があると伝えると、それでよいとのこと。
参考資料
- ◆『和漢三才図会』4(寺島良安/著 平凡社 1986)
- ◆『日本庶民生活史料集成』第28巻(谷川健一/[ほか]編集 三一書房 1980)
調査にあたって
時間があれば、『甲陽軍鑑』や「信玄全集末書」(『甲斐叢書』5巻などに所収)などを詳しく調査するところだったが、1時間以内に回答がほしいという急ぎのレファレンスであったため、主だった武田氏の兵法資料や図録の多い資料に見あたらない時点で武田関係の資料の調査を一時やめ、他資料の手がかりを得るためにインターネット検索に切り替えたところ、有効な情報を得て時間内に回答することができた。
作成日:2009年3月13日
武田信玄の次男(竜宝・竜芳)は目が不自由だったというが、生まれつきのものか、病気によるものか。
回答
弘治2(1556)年9月吉日付で信玄が瑜伽寺本尊薬師如来に捧げた願文には、疱瘡にかかり失明した次男・聖導(しょうどう・後の竜宝)の快癒を願う内容が記されている。これまで聖導は生まれながらの盲目とされてきたが、この願文により15歳(聖導は天文10(1541)年生まれとされる)で疱瘡にかかり失明したことがうかがえる。願文は現存しないが、米沢市立図書館蔵『歴代古案』に書写されたものが残っている。
キーワード
■竜宝■竜芳■盲目■疱瘡■信玄■願文
調査過程
- ■『新編武田信玄のすべて』では、執筆者により「生まれながらの盲目」「弘治2年に失明」と二つの説がみられる。
- ■『甲陽軍鑑』には盲目であることだけが書かれている。『甲斐国志』には「康富記等ニ見ユ竜宝生レナガラ亡明」とある。『武田信玄大事典』なども生まれながらの盲目としている。
- ■「ザやまなし」268号に連載の「素顔の武田信玄7 竜宝への愛(上)」に、弘治2年に武田信玄が捧げた願文の写しが米沢市立図書館蔵『歴代古案』に残されており、聖導の目の快癒を祈る内容であることを、2003年に報告したとある。
- ■山梨日日新聞データベースで「竜宝」をキーワードに2003年に絞って検索する。7月24日23面に「二男治癒へ親の情愛」という見出しの記事がヒットする。その中で『戦国遺文武田氏編』第3巻の月報で発表したとある。
- ■『戦国遺文武田氏編』第3巻月報に掲載の「武田信玄の人間像」文中に、「通説では、聖導は生まれながらにして盲目であったとされてきたが、これは全くの誤りであり、少なくとも弘治2年秋までは両眼は健常であったのである。」とある。
- ■山梨県立博物館学芸員からも、説が正しいこと、願文は『戦国遺文 武田氏編』第1巻に掲載されている「510武田晴信願書写」であるとの回答をいただいた。
- ■『武田信玄からの手紙』(山梨県立博物館監修 山梨日日新聞社 2007)にも関連する記載あり。
参考資料
- ◆『新編武田信玄のすべて』(柴辻俊六編 新人物往来社 2008)
- ◆『戦国遺文 武田氏編』第1巻(柴辻俊六・黒田基樹編 東京堂出版 2006)
- ◆『戦国遺文 武田氏編』第3巻月報(東京堂出版 2003)
- ◆『武田信玄からの手紙』(山梨県立博物館監修 山梨日日新聞社 2007)
- ◆「ザやまなし」268号(山梨日日新聞社 2007)
- ◆「山梨日日新聞」2003年7月24日23面
調査にあたって
武田信玄の二男・竜宝は「生まれながらの盲目」との思い込みがあり、質問を受けた時には驚いた。さらに同じ本の中でも「生まれながらの盲目」「疱瘡により失明」と説が分かれていることにはもっと驚いた。様々な資料を見てみたが、「生まれながらの盲目」あるいは「盲目」とだけ書かれているものばかりだった。別件で調査中だった「ザやまなし」269号に「素顔の武田信玄8 竜宝への愛(下)」が掲載されており、それなら前号にも竜宝に関する記事が載っているはずだと、今回の回答への手がかりがつかめた。
作成日:2009年1月31日
山梨県内の企業の納税ランキングを見たい。
回答
法人の場合、申告所得でランキングされる。申告所得ランキングは、『日本の会社79000』2006年版に掲載があり、山梨日日新聞縮刷版検索(山日News)で該当記事が検索できる。ただし、2006年に法人申告所得の公示制度が廃止されたため、申告所得のランキングは、以降の期間については出ていない。
キーワード
■申告所得■法人所得■高額所得法人
調査過程
- ■『東商信用録』『帝国データバンク会社年鑑』「会社四季報」を見るが該当なし。
- ■山日Newsで検索する。
- ■2005年12月18日の山梨日日新聞3面「表層深層」の記事に、個人の高額納税者公示制度の廃止に伴い、法人所得の公示制度も廃止が決定的となったと書かれている。これまで、法人の場合、申告額が4千万円を超えると、法人名、所得額が公示され、信用調査会社により、所得上位の法人ランキングが発表されていたことがわかる。
- ■インターネットで検索。財務省のウェブサイトで「第169回国会における財務省関連法律」として、「所得税法等の一部を改正する等の法律」が2006年4月1日に施行されたことがわかる。これにより法人申告所得の公示制度が廃止された。そのため、申告所得のランキングは、以降の期間については出ていない。
- ■「申告所得」をキーワードに、当館資料を検索。
- ■『日本の会社79000』2006年版(東洋経済新報社 2006)に、2005年の都道府県別申告所得ランキングの掲載あり。
- ■再度、山日Newsで検索する。
- ■「高額所得法人ランキング」「法人所得上位100社」「法人所得ランキング」など、2004年以前のランキング記事あり。
参考資料
- ◆『日本の会社79000』2006年版(東洋経済新報社 2006)
調査にあたって
『日本の会社79000』は会社や企業だけでなく、学校・宗教・医療法人、協同・企業組合、非営利団体など所得納税法人すべてが掲載されており活用できる。業種別ランキングや総合ランキングベスト2000社及び都道府県別ランキングの一覧も掲載されているが2006年版をもって休刊となった。
作成日:2008年10月2日
韮崎市の新府城址にある大きな石碑について知りたい。
回答
昭和57年4月20日、新府四百年記念祭において、高さ1.64メートル、横6.67メートル、厚さ0.36メートルの仙台御影石製の記念碑「甲斐国主武田氏四百年追遠の碑」が建立・除幕された。碑は元市議が寄贈し、韮崎市文化財保護審議会会長(当時)による碑文には武田家のいわれが書かれている。
キーワード
■新府城■石碑■記念碑■武田家■韮崎市
調査過程
- ■『韮崎市誌』資料編(韮崎市 1979)の「金石文」の項に、新府城址の石碑2点の写真あり。1つは長篠の戦いの分骨慰霊碑、もう1つは城址にある藤武神社のいわれが書かれている石碑。依頼者によると、かなり大きく立派な石碑で、武田家のいわれが書かれているらしいとのことなので、どちらも該当するものではない。その他韮崎市関係の資料や記念碑・漢字碑の資料を見るが記載なし。
- ■新府城址のある韮崎市の韮崎市立図書館へ問い合わせる。『韮崎市誌』刊行後、比較的最近になって大きな石碑が建てられたようだが、詳細については調査してみるとの回答をいただく。
- ■インターネットで検索する。テレビドラマの影響か山梨県に観光で訪れる方も多く、ブログ等で新府城に関する記載が多く見つかる。その中に「昭和57年に建てられたらしい武田氏滅亡400年記念の碑」と書いているページを発見。
- ■1982(昭和57)年の「広報にらさき」(韮崎市 1982)を調査。5月号の表紙に新府城址に大きな記念碑が建立されたことが記載されていた。また『山梨日日新聞縮刷版』1982(昭和57)年4月号(山梨日日新聞社 1982)に21日付けで記事があり、除幕の様子などが書かれていた。どちらも写真を掲載。
- ■韮崎市立図書館からも同様の回答をいただいた。
参考資料
- ◆「広報にらさき」1982(昭和57)年5月号(韮崎市 1982)
- ◆「山梨日日新聞縮刷版」1982(昭和57)年4月号(山梨日日新聞社 1982)
調査にあたって
「少し前」の情報が「本」という形になるまでには時間がかかる。多様な資料を収集・保存していくことの大切さを、改めて認識した。新聞記事によると除幕式は武田家当主なども出席する盛大なものだったようで、400年以上経った今も続く武田家への思いを感じた。
作成日:2007年12月7日
昇仙峡にある長潭橋(ながとろばし)が開通した日はいつか。
回答
1925(大正14)年12月5日に開通式が行われた。
キーワード
■長潭橋■橋■昇仙峡
調査過程
- ■『山梨百科事典』増補改訂(山梨日日新聞社 1989)で「ながとろばし」を検索。「長潭橋」の項目があり、「1925(大正14)年」に「完工」したと記述あり。
- ■『角川日本地名大辞典』19 山梨県(角川書店 1984)で、「長潭橋」を検索。「大正14年完成」とあるのみ。
- ■上記資料から県道にある橋であることがわかったので、『山梨県土木部百年の歩み』(山梨県建設技術センター 1983)を確認することにする。第3章「事業と制度の変遷」第3節「大正期」一「道路、橋梁事業」を見ると、「長潭橋(甲府昇仙峡線)」があった。「大正十四年竣功」とあり、開通の日付は記載されていなかった。
- ■歴史的な橋ということから『山梨県の近代化遺産』(山梨県教育委員会 1997)を見ると、「長潭橋」の項目が掲載されていた。「竣功年 大正14年10月」とあったが、開通日の記載はなかった。
- ■『甲府市史』別編Ⅳ 年表・索引(甲府市役所 1994)で大正14年の年表を見る。12月に「昇仙峡長潭橋完成」となっていた。
- ■新聞記事に関連情報がないか調べてみる。「山梨日日新聞縮刷版検索」で「長潭橋 大正」をキーワードに検索する。2006年12月5日付の「きょうの歴史」欄に、大正14年に長潭橋の渡り初めが行われたことが記されていた。
- ■「山梨日日新聞」のマイクロフィルムで大正14年12月5日前後を確認する。12月4日付2面に「明日開通式」という見出しで行事日程等が記され、6日付2面に「御嶽記念式盛況裡に行はる」という開通式開催に関する記事が確認できた。
参考資料
- ◆「山梨日日新聞」1925(大正14)年12月4日
- ◆「山梨日日新聞」1925(大正14)年12月6日
- ◆『山梨百科事典』増補改訂(山梨日日新聞社 1989)
- ◆『角川日本地名大辞典』19 山梨県(角川書店 1984)
- ◆『山梨県土木部百年の歩み』(山梨県建設技術センター 1983)
- ◆『山梨県の近代化遺産』(山梨県教育委員会 1997)
- ◆『甲府市史』別編Ⅳ 年表・索引(甲府市役所 1994)
調査にあたって
「山梨日日新聞」のほか、当時発行されていた「山梨毎日新聞」「山梨民報」も確認したところ、大正14年12月6日付にそれぞれ記事が見られ、開通式の様子をうかがい知ることができた。開通式とともに、長潭橋渡初式や東宮殿下登臨碑除幕式、御嶽道路竣工記念碑除幕式といった行事も同時に行われていた。
作成日:2007年8月7日
雑誌「農業と文化」を所蔵しているか。
回答
山梨県立文学館に、「農業と文化」の18号、21号、33号の所蔵がある。
キーワード
■「農業と文化」■雑誌■山田多賀市(ヤマダタカイチ)
調査過程
- ■自館システムの逐次刊行物検索で「ノウギョウトブンカ」を検索するが、所蔵なし。
- ■依頼者から、作家山田多賀市が関係していることを聞いたので、『山梨の作家―やまなし文学散歩』2巻(毎日新聞社甲府支局編 山梨ふるさと文庫 1995)を見ると、誌名の記載はないが、関連する記述あり。
- ■『輝いて生きた人々』(備仲臣道著 山梨ふるさと文庫 1996)で「山田多賀市」の項を見ると、「1946年 農業技術雑誌「農業と文化」を創刊、月刊15万部を全国で発売」との記載あり。
- ■「全国で発売」とあったことから『国立国会図書館所蔵国内逐次刊行物目録 平成9年末現在』(国立国会図書館 1998)で「農業と文化」を検索するが、記載見られず。
- ■山梨県立文学館に「農業と文化」の所蔵調査を依頼する。所蔵が3号分あり。
参考資料
- ◆『輝いて生きた人々』(備仲臣道著 山梨ふるさと文庫 1996)
調査にあたって
山梨県立文学館には文学関係を中心に10数万冊の雑誌が収蔵されている。国立国会図書館の蔵書になかったため、郷土作家の周辺資料として文学館で所蔵していることを期待して、調査依頼をした。
作成日:1999年2月2日
武田家の99箇条家法について知りたい。
回答
「信玄家法」または「信玄御式目」、「甲州法度」、「信玄法度」ともいう。武田信玄が領地にしいた唯一の武家法。『信玄家法』は上下巻からなり、上巻57箇条、下巻99箇条からなる。下巻は永禄元(1558)年4月に信玄の弟信繁によって定められた。上巻が法律的内容を持つのに対し、下巻は中国の古典などをもとにした教訓的色合いが濃い。
キーワード
■甲州法度(コウシュウハット)■信玄家法■武田信繁(タケダノブシゲ)■家法
調査過程
- ■武田家の家法には「甲州法度」が思い浮かぶので、『山梨百科事典』増補改訂(山梨日日新聞社 1989)で「甲州法度」を検索する。「甲州法度之次第」の項目があるが、57箇条本、26箇条本の記述のみ。
- ■自館システムの辞書検索で「コウシュウハット」を検索する。『新修甲州法制史』1巻(林貞夫著 中央大学出版部 1975)ほか数冊がキーワードで該当。
- ■『新修甲州法制史』第1巻で「甲州法度」を検索する。第2章「甲州法度」第1節「『信玄家法』について」に、『信玄家法』の下巻が99箇条からなっているとの記載あり。また、第5節「『信玄家法』下巻について」には99箇条全文が解説付きで紹介あり。
参考資料
- ◆『新修甲州法制史』第1巻(林貞夫著 中央大学出版部 1975)
調査にあたって
『新修甲州法制史』は全5巻からなり、1巻が武田時代編、2~4巻が徳川時代編、5巻が明治維新編となっている。今回の調査では、1巻に『信玄家法』の解題、全箇条の解説が掲載されていたため、非常に有効であった。
作成日:1998年5月24日
玉幡飛行場について知りたい。また、写真があったら見たい。
回答
昭和7(1932)年、山梨航空研究会(梅沢義三会長)が玉幡村(現・竜王町)に玉幡競馬場を含む用地を買収して開設、昭和11(1936)年山梨飛行場として認可された。昭和14(1939)年には山梨航空技術学校が認可された。昭和15年には熊谷陸軍飛行学校も開設され、軍民共用飛行場となった。終戦により閉鎖され、敷地は農林高校、警察学校、日立製作所甲府工場などに払い下げられた。写真は『航空教育60年』(日本航空学園 1992)、『目で見る韮崎・巨摩の100年』(郷土出版社 1990)に掲載あり。
キーワード
■飛行場■玉幡飛行場(タマハタヒコウジョウ)■山梨飛行場■梅沢義三(ウメザワヨシゾウ)
調査過程
- ■『山梨百科事典』増補改訂(山梨日日新聞社 1989)で「玉幡飛行場」を引くが、記載なし。
- ■『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1972)で「玉幡飛行場」を引く。項目あり。
- ■『竜王町史』(竜王町 1976)で「玉幡飛行場」を検索する。「飛行学校」の項に記述あり。創設者梅沢義三が戦後「日本航空工業学校」を建設したとの記述あり。
- ■『竜王町史』の記述から、日本航空学園の記念誌を探す。『航空教育60年』(日本航空学園 1992)に「Ⅰ草創期-昭和7年~昭和20年」の章に、記述、写真資料あり。
- ■『目で見る韮崎・巨摩の100年』(郷土出版社 1990)で、「玉幡飛行場」を検索する。「陸軍飛行学校生徒」、「"赤トンボ"を背に立つ教官」、「玉幡飛行場での訓練風景」の写真あり。
- ■山梨日日新聞記事データベースで関連記事があるか探す。「飛行場」「玉幡」のアンド検索で数件ヒットする。「山梨百二十年ふるさとを歩く 41 飛行場物語」(1992年6月10日付)の記事あり。
参考資料
- ◆『航空教育60年』(日本航空学園 1992)
- ◆『目で見る韮崎・巨摩の100年』(郷土出版社 1990)
- ◆『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1972)
- ◆『竜王町史』(竜王町 1976)
調査にあたって
『山梨百科事典』では旧版と増補改訂版で項目名が違っていた。旧版で見た後、「山梨飛行場」で増補改訂版を引き直すと、項目が見つかった。利用者が写真資料を求めていたので写真集も参考にしたが、『航空教育60年』が最も豊富に掲載されていた。
作成日:1998年7月30日
明治から現在まで、天皇の山梨県への行幸は何回あったか。
回答
明治天皇は明治13(1880)年6月の巡幸の1回。大正天皇の行幸はなし。昭和天皇は昭和22(1947)年の巡幸、昭和25(1950)年の植樹祭、昭和32(1957)年の視察、昭和61(1986)年のかいじ国体の4回。今上天皇は平成8(1996)年に来県されている。
キーワード
■行幸■巡幸■天皇
調査過程
- ■行幸には必ず警備が必要と考え、『山梨県警察史』上、下巻(山梨県警察史編さん委員会編 山梨県警察本部 1978~1979)を見る。明治、大正、昭和とも「警衛」の項に記録あり。
- ■山梨日日新聞記事データベースで、キーワード「昭和天皇」、県内地域、分類「総類」指定で検索。該当した記事のうち「県内にしるされた足跡」(1989年1月8日付)「国民とともに―10年を迎えた平成の皇室」(1998年1月1日付)で昭和から現在までが判明。
参考資料
- ◆『山梨県警察史』上、下巻(山梨県警察史編さん委員会編 山梨県警察本部 1978~1979)
- ◆「山梨日日新聞縮刷版」平成元年1月号(山梨日日新聞社 1989)
- ◆「山梨日日新聞縮刷版」平成10年1月号(山梨日日新聞社 1998)
調査にあたって
山梨日日新聞記事データベースは1988年分から検索できるが1995年までは見出し検索のみである。見出しに使われると思われる言葉を想定して検索するのだが、自分の思う言葉と見出しの単語が合わなかったり、逆に数多くありすぎたりするので、絞り込みに工夫が必要となる。山梨県へのそれぞれの行幸啓関係の資料は、『明治天皇御巡幸記』(山梨県 1940)、『明治天皇山梨県御巡幸略記』(山梨県聖蹟保存聖徳顕彰会 1939)、『山梨県行幸啓誌 昭和32年』(山梨県 1957)、『行幸啓誌』(山梨県 1986)、『行幸啓誌』(山梨県 1996)などの図書や、若尾資料(大正期に若尾謹之助により組織された山梨県志編さん会によって「山梨県志」編さん事業のため収録された資料群)の記録もある。
作成日:1999年2月3日
節句人形のかなかんぶつについて知りたい。
回答
かなかんぶつは山梨県に古くからある郷土玩具で、通称「おかぶと」といい、端午の節句に飾られた。いつ頃からあるかははっきりしていない。木型によって和紙を貼り重ね、面型をとって絵の具で顔、兜を書き入れて棒の先につけ、厚紙で鎧の袖のようなものを前に吊り下げる。面には源氏や武田の武将のほか、架空の天狗・桃太郎、中国の史話の人物、芝居や踊りの登場人物などがあった。明治中期ごろから廃れ、今では失われている。
キーワード
■かなかんぶつ■おかぶと■端午の節句■節句人形
調査過程
- ■『山梨百科事典』増補改訂(山梨日日新聞社 1989)で「かなかんぶつ」を検索するが、項目なし。
- ■自館システムの辞書検索で「カナカンブツ」を検索する。図書に『花と人形』(輿石有著 興石妙 1974)、甲州文庫に「おかぶと張子」、「おかぶと木型」の2点の器物資料がある。かなかんぶつは「おかぶと」ともいうことがわかる。
- ■自館システムの辞書検索で「オカブト」、単語検索で「オカブト」、「カナカンブツ」を検索するが、該当資料なし。
- ■関係する論文を調べるため、自館システムの逐次刊行物検索の内容書名で「オカブト」、「カナカンブツ」を検索する。「甲斐路」1~2号(山梨郷土研究会 1961)に上野晴朗著「甲斐おかぶと考」の論文があることがわかる。
- ■論文から、関連資料として『甲斐の落葉』(山中共古著 郷土研究社 1926)、『綜合郷土研究』(山梨県師範学校 1936)、『甲斐志料集成』12巻(萩原頼平編 甲斐志料刊行会 1935)の「甲斐の手振」「甲州年中行事」があることがわかり、資料にあたる。
- ■分類K38の書棚をみる。『やまなしの民俗』上巻(上野晴朗著 光風社書店 1973)に「甲斐のおかぶと」の項あり。内容は「甲斐路」の論文と同一であるが、末尾に論文掲載 後のことを記した註があり「甲斐史学」18、19合併号(甲斐史学会 1963)に田畑真一著「甲斐の郷土玩具かなかんぶつについて」があることがわかり、資料にあたる。
- ■『甲府市史』別編Ⅰ「民俗」(甲府市史編さん委員会編 甲府市役所 1988)の「祭りと年中行事」の項をみる。「端午の節句」で若干の記述あり。
参考資料
- ◆『花と人形』(輿石有著 興石妙 1974)
- ◆「甲斐路」1~2号(山梨郷土研究会 1961)
- ◆『甲斐の落葉』(山中共古著 郷土研究社 1926)
- ◆『綜合郷土研究』(山梨県師範学校 1936)
- ◆『甲斐志料集成』12巻(萩原頼平編 甲斐志料刊行会 1935)
- ◆『やまなしの民俗』上巻(上野晴朗著 光風社書店 1973)
調査にあたって
雑誌論文は、論文そのものの記述はもちろん、参考文献の記載が多いことから関連資料を見つける格好の材料となる。『甲斐志料集成』は郷土史家萩原頼平が甲斐国に関する資料を集めて編集したもので、昭和7(1932)年から全12巻で刊行された。同時期に甲斐叢書刊行会から『甲斐叢書』が全12巻で刊行されている。どちらのシリーズも郷土研究に欠かせない基礎史料が翻刻、集大成されており、郷土資料の調査に欠かせないツールである。
作成日:1998年3月25日
着工建築物の統計で、市町村別になっているものはないか。
回答
市別のみ構造別着工建築物の平成8年の統計が山梨県統計データバンクに掲載されている。この統計は昭和40年までさかのぼることができる。山梨県統計データバンクはインターネット、県民情報センターで利用できる(インターネットで情報が見られるのは昭和63年以降のデータ)。
キーワード
■建築■着工建築物■統計
調査過程
- ■『山梨県統計年鑑』平成7年(山梨県 1997)で着工建築物の統計をみる。もとの 資料として建設省の『建築統計年報』が挙げられている。
- ■自館システムの書名検索で「ケンチクトウケイネンポウ」を探すが、所蔵なし。
- ■逐次刊行物の「統計情報やまなし」(山梨県企画県民局統計調査課)を探す。1998年9月号に構造別着工建築物の最新統計があるが、県単位のみ。
- ■「やまなしまなびネット」から山梨県のホームページ(http://www.pref.yamanashi.jp)をよびだす。県のホームページにある「山梨県統計データバンク」(http://www.pref.yamanashi.jp/toukei/index.html)大分類「鉱工業・建設」から小分類「着工建築物」とすすむと『建築統計年報』をもとにした着工建築物の統計あり。
参考資料
- ◆『建築統計年報』平成11年度版(建設物価調査会 1999)
調査にあたって
統計資料はもっとも利用される行政資料であり、その種類はさまざまである。これまで冊子の形で所蔵があるか、または何かに掲載されていないと、提供が難しかった。山梨県統計データバンクはインターネットから山梨に関する統計を調べることが可能である。ただし、月単位のものなどは最新データのみに更新されるものもあるので、必要な統計は定期的に確認をして蓄積をしていく必要がある。
作成日:2000年2月1日
広瀬広一氏が編者の「カイシリョウシュウセイ」を見たい。
回答
特殊資料「赤岡重樹旧蔵資料」の中に『甲斐史料集成』1~7がある。
キーワード
■「甲斐史料集成」■赤岡重樹(アカオカシゲキ)■広瀬広一(ヒロセコウイチ)
調査過程
- ■「カイシリョウシュウセイ」という名でまず思いついたのが『甲斐志料集成』だが、編者は萩原頼平氏である。郷土資料として基本書であるが、同様に有名なのが広瀬氏らが刊行した『甲斐叢書』。どちらも可能性があるので、これらの資料を質問者に提示したが、この資料ではないとのこと。
- ■質問者に再度確認したところ、『山梨県史』資料編4(山梨県編 山梨日日新聞社 1999)に「甲斐史料集成 四」いう資料名が記されており、質問者自身が山梨県史編さん室へ問い合わせをしたところ、「甲斐史料集成」は、山梨県立図書館で所蔵しており、広瀬氏の編集のものであるとの回答を得たそうである。
- ■「カイシリョウシュウセイ」という書名は、自館システムでは『甲斐志料集成』しかヒットしない。ということは、データ未入力の特殊資料である可能性がある。そこで、『甲斐志料集成』を刊行した萩原頼平氏の古記録・古文書集である「頼生文庫」の中にあるのではないかと『古文書目録』4(山梨県立図書館 1981)を見たが、収録されていない。
- ■広瀬氏は赤岡重樹氏とともに『甲斐叢書』を刊行したので、「赤岡重樹旧蔵資料」に関係しているかもしれないと、『古文書目録』5(山梨県立図書館 1983)の「赤岡重樹旧蔵資料」の項を探すと、『甲斐史料集成』という資料名があった。
参考資料
- ◆『古文書目録』5(山梨県立図書館 1983)
調査にあたって
『甲斐志料集成』『甲斐叢書』は郷土の基本資料であるので、てっきりこの二つのどちらかで、質問者の勘違い(編者と資料名が間違っている)などと思い込んでこれらの資料にこだわりすぎてしまった。最初から、質問者の調査経緯を詳しく聞いておくべきだった。電算化されていない特殊資料の検索については、それぞれの文庫や家文書の由来や特徴についての知識が必要であることを実感した。
作成日:2001年2月16日
「あの人は燈籠佛のような人だ」とはどういう意味か。
回答
善光寺を建てた時、信玄が信濃から借りた金仏をなかなか返さなかったことから、人より物を借用した時、または人の申し出に対し、色々ともったいをつけて応じない人間、または頑固一点張りで融通の利かない人間のことを「あれは燈籠佛だ」というようになった。意味はほぼ同じだが、豊臣秀吉と浅野長政の話が由来とする説もある。
キーワード
■燈籠佛■善光寺■武田信玄■豊臣秀吉
調査過程
- ■この調査を依頼されたとき甲府の善光寺で「燈籠佛展」を行っていたので、善光寺など寺社関係の資料を調査したが、記載なし。
- ■善光寺の所在地である甲府市に関係する資料『甲府市史』などを見たが、こちらにも記載されていなかった。
- ■民俗関係の資料を探すと、『甲斐昔話集』続(土橋里木著 郷土研究社 1936)の中に、信玄由来の上記のような記述があったので、質問者に回答した。
- ■その後『《燈籠佛》の研究』(吉原浩人編 至文堂 2000)が発行されたので内容を確認すると、「維新後の《燈籠佛》伝説」の部分に詳しい記述があった。これには、『甲斐昔話集』続の中に書かれている由来と意味のほかに、『甲州善光寺如来』(日向鉄城著 朝日老人大学出版部 1968)に書かれている"甲府に燈籠佛という方言があり、これは「分からずや」「わからんじん」の意味で、昔秀吉が甲斐国主浅野長政に「善光寺如来を京都に迎えよ」と命じたが、善光寺の住職は拒否し、急遽偽仏をつくり、真仏は大屋根の四隅に下げてある燈籠の一つに閉じ込め、見ても触れてもいけないと申し渡した"という由来も合わせて紹介されていた。
参考資料
- ◆『甲斐昔話集』続(土橋里木著 郷土研究社 1936)
- ◆『《燈籠佛》の研究』(吉原浩人編 至文堂 2000)
- ◆『甲州善光寺如来』(日向鉄城著 朝日老人大学出版部 1968)
調査にあたって
『甲州善光寺如来』は当館で所蔵していたにも関わらず、宗教・寺関係の分類中心に検索していたため「論文集」に分類されていたこの資料には気がつかなかった。自館システムなどで丁寧に探せば見つかったかもしれない。また、すでに回答済みのレファレンスでも、関連の新しい研究書に目を通しておくことが大切だと実感した。
作成日:2000年12月17日
関東大震災で被災した学校の数を知りたい。新聞記事に「県震災統計」という資料の名をみかけたが、これに載っているのではないか。
回答
小学校では校舎が一部倒壊、大破したのが13校。また、小破のものは25校。公立中等学校では小破が3校。私立中等学校では小破が1校。県立学校では大破が3校、小破8校。合計53校が被害にあった。
キーワード
■関東大震災■被災■学校
調査過程
- ■「ケンシンサイトウケイ」を自館システムで書名、辞書(件名)検索したが未ヒット。
- ■『山梨県統計書』の大正期のものや、『山梨県史』資料編17(山梨県編 山梨日日新聞社 2000)にも震災被害の統計資料のようなものは載っていない。
- ■自館システムで「カントウダイシンサイ(関東大震災)」を辞書(件名)検索し、『大正山梨県誌』(佐藤源太郎編・発行 1927)『山梨県地震災害予想』(山梨県防災会議・地震部会 1976)『山梨の地誌研究』(甘利亀雄 1978)などを調べるが、詳しいものは載っていなかった。
- ■次に自館システムで過去のレファレンスデータを検索。「山梨県の災害史」についてのレファレンスがあり、このとき使用した『山梨県の気象百年』(甲府地方気象台百年誌編集委員会 1994)などを調べたが詳しくは載っていなかった。
- ■一般資料の中にないか探すことにし、もう一度「カントウダイシンサイ」を辞書(件名)検索し、『大正震災志』上(内務省編 内務省社会局 1926)を見ると県別に被害状況が非常に詳しく記されており、山梨県の学校の被害についても載っていた。
参考資料
- ◆『大正震災志』上(内務省編 内務省社会局 1926)
調査にあたって
質問者が「この資料(『大正震災志』)で十分です」と言ったことでその時の調査は終了してしまったが、その後、前述の『山梨県史』の解説部分に"山梨県蔵『大正十二年九月一日震災統計』"との記載を発見。この書名でもう一度検索したが、当館では所蔵しておらず、県の私学文書課で保存している資料であることを確認した。『山梨県史』にあたった時点でもう少し丁寧に調査していれば、より詳細な情報を提供できたかもしれない。資料を丁寧に調査していくことの重要性を再認識した。
作成日:2001年3月17日
雑誌「アサヒグラフ」(1982年1月24日号)に記載されていた、明治初期に南アルプス鳳凰山中で発見されたという「五器曳一簇」について、山梨県関係の文献の中に出てくるものがあれば知りたい。「甲斐犬」に関係する文献の中に出てきたように記憶しているが、この一族が大事にしていたという「甲斐犬」との関わりについても詳しい文献があれば知りたい。
回答
五器曳一簇とは、鳳凰山の山中でろくろで碗器などを生産していた山窩民族。社会と隔絶した生活を営み、実態はあきらかではない。甲斐犬との関連については、当館の資料の中には見あたらない。
キーワード
■五器曳一簇(ゴキヒキイチゾク)■山窩■甲斐犬
調査過程
- ■「甲斐犬」に関する所蔵資料から調査を開始するが「五器曳一簇」についての記述はない。
- ■鳳凰山とのかかわりから『芦安村誌』などを探すが記述なし。
- ■質問者からの手紙の中にあった「山窩」及び「民族学」という言葉から「民俗学」を想定し、『綜合日本民俗語彙』2(民俗学研究所編 平凡社 1955)の索引で「五器曳一簇」を検索してみるが、記載なし。
- ■次に『定本柳田国男集』別巻5(筑摩書房 1971)を検索すると「御器挽き(五器曳き)」という語句があり、該当巻を調べたところ、明治25年1月7日付け山梨日日新聞に「五器曳の家族」に関する記事が掲載されたことがわかった。同記事に詳細な記述があるが、いずれの文献にも「甲斐犬」との関連は出てこない。
- ■同時期に行っていた別の調査で、「木地屋と山村」(土橋里木著,「甲斐路」No.59所収,山梨郷土研究会 1987)に「五器曳一簇」に関する論究があることがわかり、あわせて回答することにした。
参考資料
- ◆『定本柳田国男集』別巻5(筑摩書房 1971)
- ◆「甲斐路」No.59 木地屋と山村(山梨郷土研究会 1987)
調査にあたって
民俗学の分野ではないかという着想が、解決への最も大きなヒントだった。結局「五器曳一簇」と「甲斐犬」とのつながりを示す資料にはたどりつけなかったが、「五器曳一簇」に関する山梨日日新聞の記事は今後の資料としても有効であろう。
作成日:2001年3月18日
武田信玄と高坂弾正が対戦した将棋の棋譜が見たい。『甲陽軍鑑』の中にあるらしいのだが。
回答
将棋ではなく、囲碁の棋譜が『古棋』、『爛柯堂棋話』(ランカドウキワ)に載っている。確かな史実かどうかは不明。『甲陽軍鑑』の中には記述は見つからない。
キーワード
■武田信玄■高坂弾正■囲碁■棋譜
調査過程
- ■当館所蔵の様々な『甲陽軍鑑』(各出版社)を調べたが、記載がない。
- ■その他、『武田信玄大事典』(柴辻俊六編 新人物往来社 2000)など武田関係の資料にあたるが見つからない。
- ■一般の将棋関係の資料にあたるが、記載なし。
- ■もしかしたら囲碁ではないか? と思い、囲碁関係の資料にあたると『爛柯堂棋話』1(林元美著 平凡社 1979)に、「甲州家臣、春日源五郎の事」の記載あり。『爛柯堂棋話』2には、二人の対戦の棋譜が掲載されていたが、出典は不明。
- ■『囲碁百科辞典』(林裕編著 金園社 1983)の囲碁年表に、「長遠寺に於いて、武田信玄、高坂弾正と対局す」とあり、記載書が『古棋』となっていた。
- ■特殊資料(甲州文庫)の中に『古棋』(三神松太郎著 出版社不明 1829)があり、『爛柯堂棋話』2と同じ二人の対戦棋譜が掲載されていた。しかし、この資料にも確かな出典記録はなく(著者の囲碁の師匠が所蔵していた資料からの抜粋らしいが、どのような資料かは不明)、史実かどうかはわからない。
参考資料
- ◆『爛柯堂棋話』2(林元美著 平凡社 1979)
- ◆『古棋』(三神松太郎著 出版社不明 1829)
- ◆『武田信玄』(「現代視点戦国・幕末の群像」旺文社 1983)
調査にあたって
郷土資料、一般資料、特殊資料(甲州文庫)と様々な資料にあたり、また、質問そのものに対しても疑問を投げかけながらの、苦心のレファレンス。『古棋』を所蔵していたことでようやく解決した。後日、『武田信玄』(「現代視点戦国・幕末の群像」旺文社 1983)にも、『坐隠談叢』という資料(未所蔵)から引用した棋譜が載っているのを発見。内容は『古棋』と同じものだが、偽作の疑いもあるとの記述があった。
作成日:2001年3月17日
戦国期から江戸期にかけての特産物であった甲州漆について研究している人はいるか。また、研究書や研究論文はあるか。
回答
『山梨の歴史景観』に書かれているとおり、甲州漆については桑原家の文書などに見えるが、漆の生産・流通に関わる文書が欠けるためか、県内で特に研究している方、また漆を対象とした論文なども見当たらない。各市町村誌などにわずかな記述がみられる程度である。
キーワード
■漆■甲州漆■特産物
調査過程
- ■質問者は『山梨の歴史景観』(山梨郷土研究会編 山梨日日新聞社 1999)にある「漆」についての記述を見たということなので本書を確認すると、『甲陽軍艦』「桑原家文書」『古山日記』『裏見寒話』の甲州漆に関する記述を紹介しているが、あまり詳しいものではない。このページの執筆者が笹本正治氏であったので、笹本氏の著作を自館システムで検索し、本にあたるが、漆についての詳しい論文のようなものは載っていない。
- ■『山梨郷土史研究入門』(山梨郷土研究会編 山梨日日新聞社 1992)の「特産物生産の展開」の項目には、漆に関する論文や文献についての記述はない。
- ■レファレンスのために作成した「甲斐路」や「武田氏研究」などの県内の歴史研究雑誌の目次のコピーを綴ったファイルから該当するような論文を探すが、見当たらない。
- ■『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)で、「甲州漆」「ウルシ」をひいてみると、『山梨の歴史景観』に書かれているような説明があり、現在の牧丘町、敷島町などが生産地としてあげられていた。各町村誌をみてみると、漆に関する記述があったが、それほど詳しくはない。
- ■武田氏の時代からの特産物であるので、武田氏の資料にあたると『戦国文書聚影』武田氏篇(戦国文書研究会編 柏書房 1973)の付録資料に漆についての記述があったが、論文といえるほどの詳しさではない。
- ■図書館にいらしていた甲州の近世に詳しい研究者の方にうかがうと、漆については流通や生産に関わる文書、史料が少ないので、特に漆について研究してる人はいないだろうとのこと。
参考資料
- ◆『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)
- ◆『山梨の歴史景観』(山梨郷土研究会編 山梨日日新聞社 1999)
- ◆『戦国文書聚影』武田氏篇(戦国文書研究会編 柏書房 1973)
調査にあたって
有名な特産物なのでそれに関する論文ならすぐにみつかるだろうと思っていたが、意外と見当たらない。最後、研究者の方の一言で納得。
作成日:2000年12月17日
山梨の医療施設について次の4点について知りたい。1.県内の病院の名称、ベッド数、設置団体(国立・公立・私立)2.県内の診療所の数 3.県内の調剤薬局数 4.県内の院外処方の推移
回答
当館所蔵の県内の医療施設についての資料は以下のとおり。特に『山梨県衛生統計年報』には統計的な情報が多く、1の質問に対応する一覧表がある。『山梨県衛生統計年報』1999年版(山梨県福祉保健部 2000)『山梨県統計年鑑』平成9年(山梨県企画県民局統計調査課 2000)『医籍総覧』東日本編(医事公論社 1999)『病院ガイドブック』(山梨県病院協会編・発行 1999)
キーワード
■病院■診療所■薬局■医療施設
調査過程
- ■自館システムでレファレンスデータを検索したところ、以前「県内の病院の概要を知りたい」という質問に対し、『医籍総覧』東日本編を提供していた。この資料にあたると、県内の個々の病院(個人病院含む)について名称や概要などが詳しく記載されていたが、ベッド数については記載がある病院とない病院があった。
- ■『病院ガイドブック』にあたると、山梨県病院協会に加盟している病院についてはベッド数などが詳しく載っているが、それ以外の病院については記載がない。また統計資料もない。
- ■数についての質問なので統計資料『山梨県統計年鑑』にあたってみるが、病院の数、ベッドの総数の情報のみで、個々の病院の情報は記載されていなかった。
- ■次に『山梨県衛生統計年報』をみると、医療施設に関する詳しい統計があり、病院の数のほか、一般診療所や歯科診療所の数の統計もある。「調剤薬局」という項目の統計はなかったが、「薬局の開設者・代表者数」の統計があった。さらに、付表として「病院一覧表(平成11年4月1日現在)」があり、県内60の病院の名称・住所・電話番号・使用許可病床数・経営主体・診療科目・開設年月日が載っていた。
- ■県内の院内処方の推移についてはどの資料にも記載がなかった。
参考資料
- ◆『山梨県衛生統計年報』(山梨県 2000)
- ◆『山梨県統計年鑑』(山梨県 2000)
- ◆『病院ガイドブック』(山梨県病院協会編・発行 1999)
- ◆『医籍総覧』東日本編(医事公論社 1999)
調査にあたって
医療施設関係の質問は最近多く、質問内容も具体的になってきているので、これらの関係資料の特徴を把握しておく必要性を実感した。
作成日:2001年3月17日
坂本龍馬の許婚だったという千葉佐那の談話が様々な龍馬関係の資料に出てくるがこの記事の出所(資料)が分からない。千葉佐那と交流があった山梨県出身の小田切謙明に関係する資料に手がかりがないだろうか。
回答
小田切謙明ほか山梨県関係の資料には談話の出所については記載されていない。『日本奇談逸話伝説大事典』(志村有弘 松本寧至共編 勉誠社 1994)の「坂本龍馬」の項に「女学雑誌」352号に佐那の談話が載っているとある。
キーワード
■坂本龍馬■千葉佐那■小田切謙明(オタギリケンメイ)■「女学雑誌」
調査過程
- ■自館システムのレファレンスデータで「チバサナ」を検索したところ、以前「甲府に坂本龍馬の妻の墓があるときいたがどこか」という質問があり(『レファレンス事例集』2参照)、その際『小田切海洲先生略伝』(村松志孝編 海洲小田切謙明先生頌徳会 1936)や『坂本龍馬大事典』(新人物往来社 1995)などで回答していたので、これらの資料にあたると、『坂本龍馬大事典』の「千葉佐那」の項に、「女学雑誌」という雑誌に千葉佐那が龍馬と婚約したと語っているとの記述があった。しかし、巻号数は不明。
- ■そのほかの小田切謙明の伝記が載っている資料などにあたるが、千葉佐那について載ってはいても、談話に関わる明確な資料名の記述なし。
- ■自館システムで「ジヨガクザツシ」を書名検索し、創刊号の復刻版や『明治文学全集』32「女学雑誌・文学界集」(筑摩書房 1977)にあたってみるが千葉佐那の談話の記事は載っていなかった。しかし、『明治文学全集』の「月報75」に、『女学雑誌諸索引』(青山なを[ほか]著)という資料が発行されているという記事があった。当館では所蔵していない。
- ■『坂本龍馬大事典』に「婚約がどれほど現実性があるものだったか疑問視される」という一文があったので、『日本奇談逸話伝説大事典』にあたってみる。「坂本龍馬」の項に、佐那が「女学雑誌」352号に龍馬との結婚についての談話を載せているとあった。
- ■山梨県立文学館に問い合わせたところ「女学雑誌」の復刻版を所蔵していることがわかった。
参考資料
- ◆『坂本龍馬大事典』(新人物往来社 1995)
- ◆『日本奇談逸話伝説大事典』(志村有弘編 勉誠社 1994)
調査にあたって
小田切謙明に関係する資料に利用者が回答を求めてきたため、郷土資料で対応したレファレンスであったが、結果的には一般資料での回答提供となった。レファレンスを受けたとき、質問をキーワード化し、テーマを絞り込んで、一般的資料から専門的資料へと調査をしていくのだが、この事例の場合は、全く逆の流れとなった。レファレンスにあたっては、様々な角度からの検索方法を常に用意しておくことが重要であると実感した。
その後、「ザやまなし」(2010年3月号)の特集「坂本龍馬と山梨 上 佐那の愛」に山梨日日新聞の千葉さなのインタビュー記事が紹介された。"明治26年8月22日付けの山梨日日新聞3面」に掲載された「坂本龍馬氏の未亡人を訪ふ」の記事。記事は、同年9月2日刊行の「女学雑誌」にも掲載された"とある。(追記:2010/3/14)
作成日:2001年3月18日
北巨摩にある観音霊場の寺院名を知りたい。
回答
北巨摩郡には塩川筋霊場(34ヶ所)、逸見筋霊場(33ヶ所)、武川筋霊場(33ヶ所)がある。
キーワード
■霊場■巡礼■観音霊場
調査過程
- ■『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)で「霊場」「観音霊場」「巡礼」を検索するが項目なし。
- ■『山梨百科事典』の巻末索引の「宗教・信仰」の欄を検索したところ、「北巨摩郡百番観音霊場」の項目名を発見。その項目名で引いたところ、各観音霊場ごとに寺院名の記述あり。
参考資料
- ◆『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)
調査にあたって
『山梨百科事典』には巻末に索引がついていて、分野別に項目が分けられている。正式な名称などが不明ではあるが、内容がある程度わかっているとき、この索引で該当の項目が調べられることもある。
作成日:1998年3月31日
双田橋について書いてある資料と、写真があったら見たい。
回答
御勅使川にかかる橋で、双葉町と八田村を結び、県道今諏訪線が通る。昭和37年木橋が掛けられたが、昭和40年9月の台風により流失、昭和42年永久橋となった。
キーワード
■双田橋(ソウダバシ)■橋■双葉町■八田村
調査過程
- ■『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)で「双田橋」を検索するが、項目なし。
- ■『角川日本地名大辞典 』19 山梨県(角川書店 1984)で「双田橋」を検索したところ項目あり。
- ■『双葉町誌』(双葉町役場 1977)で「双田橋」についての記述を探す。第7編第1章交通運輸第2節橋梁に「双田橋」で項目あり。記述のある箇所と巻頭に、橋の写真があった。
- ■『八田村誌』(八田村 1972)で「双田橋」についての記述を探す。第4編第10章交通運輸第2節道路と交通の発達のなかに「双田橋と農免道路」の項目あり。記述のある箇所に竣工式の写真、巻頭に橋の写真あり。
参考資料
- ◆『角川日本地名大辞典』19 山梨県(角川書店 1984)
- ◆『双葉町誌』(双葉町役場 1977)
- ◆『八田村誌』(八田村 1972)
調査にあたって
『角川日本地名大事典 』19 山梨県では地名のほか、橋名や鉄道駅名・公園名なども含み、五十音順で掲載されているので、地域が不確定なときなどは非常に便利である。
作成日:1997年10月8日
「武田節」の歌詞と曲を知りたい。
回答
「武田節」は、米山愛紫・作詞、明本京静・作曲。昭和32年に作られた。『甲斐路ふるさとの民話と民謡(ふるさと自慢シリーズ 8)』(山梨県編 山梨日日新聞社 1991)に曲と歌詞の掲載あり。
キーワード
■武田節■米山愛紫■楽譜■歌詞
調査過程
- ■自館システムの単語検索で「タケダブシ」で検索すると『武田節─米山愛紫歌謡集』(内田義弘編 甲府ライオンズクラブ 1975)の所蔵があることがわかる。
- ■『武田節』を見ると、楽譜はあったがついている歌詞は英語で、日本語の歌詞の掲載は別のページだった。
- ■民謡関係の本は郷土資料分類のK38・K76に含まれるので、直接書棚で当たって見る。
参考資料
- ◆『甲斐路ふるさとの民話と民謡(ふるさと自慢シリーズ 8)』(山梨県編 山梨日日新聞社 1991)
- ◆『武田節─米山愛紫歌謡集』(内田義弘編 甲府ライオンズクラブ 1975)
調査にあたって
『甲斐路ふるさとの民話と民謡』は後半部分が民謡の部となっていて、山梨県の主要な民謡が掲載されている。ただし、新民謡の掲載はない。「武田節」は本来新民謡にはいるが代表的な曲であるという理由から唯一掲載されていた。他に『甲府市史』別編1民俗(甲府市役所 1988)の第4章言語生活第2節歌謡にも掲載があった。
作成日:1996年2月27日
山梨電気鉄道について知りたい。
回答
大正13年に甲府電車軌道会社設立、甲府・青柳間の電車運転を企画。昭和4年山梨電気鉄道と改める。昭和5年完工し、19キロメートルの営業を開始、昭和7年に20.3キロメートルが全通した。昭和13年峡西電気鉄道会社と改称。昭和20年甲府盆地一帯の交通業者を統合し山梨交通株式会社を設立した。バスの発達による営業不振で昭和37年廃止。市民からは「ボロ電」の愛称で親しまれた。
キーワード
■山梨電気鉄道■山梨交通電車■ボロ電
調査過程
- ■『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)で「山梨電気鉄道」を探すが、項目なし。
- ■『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1972)で「山梨電気鉄道」を探すと、「山梨交通電車」を見るように項目の指示がある。「山梨交通電車」で項目あり。
- ■『甲府市史』通史編3巻 近代(甲府市 1990)で山梨交通電車関係の記述を検索すると、「山交電車の登場」の項目あり。
- ■『甲府市史』通史編4巻 現代(甲府市 1993)で山梨交通電車関係の記事を検索すると、「姿を消した山交電車」の項目あり。また「山梨日日新聞 昭和55年8月23日」に関連記事ありとの記載があった。
- ■『甲府物語ー写真集 市政100周年記念』(甲府市 1990)に山交電車の写真があり、昭和32年の旅客運賃表の写真もあった。
参考資料
- ◆『甲府市史』通史編3巻 近代(甲府市 1990)
- ◆『甲府市史』通史編4巻 現代(甲府市 1993)
- ◆『甲府物語ー写真集 市政100周年記念』(甲府市 1990)
- ◆『目で見る甲府の100年』(郷土出版社 1990)
- ◆『明治・大正・昭和写真集甲府90年』(甲府市 1981)
- ◆『甲府いまとむかし』(甲府市 1963)
調査にあたって
『山梨百科事典』旧版では、2つ以上名称があるものなどにガイド項目が立てられており、今回はそれが役に立った。写真は他に、『甲府いまとむかし』(甲府市 1963)、『ふるさとの想い出写真集明治大正昭和 甲府』(国書刊行会 1978)、『目で見る 甲府の100年』(郷土出版社 1990)、『写真集 山梨百年』(山梨日日新聞社 1989)にもあった。
作成日:1996年9月29日
甲州で結成され、戊辰戦争に参加した断金隊についての資料がほしい。
回答
神主、浪士、長百姓らにより構成され、明治元年3月4日、土佐藩が甲州進駐したときに志願、東京市ケ谷の尾張藩上屋敷に入り、断金隊と命名された。4月から9月まで日光・今市・奥州の白河・三春・二本松・会津若松と各地を転戦した。明治2年3月解隊。15歳で参加した下円井村(現・韮崎市)の歌田靱雄による「断金隊出陣日記」、秋山村の萩原源五郎による「陣中日記」が残されている。
キーワード
■断金隊■戊辰戦争■歌田靱雄 (ウタダユキオ)■萩原源五郎
調査過程
- ■『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)で「断金隊」を検索するが、項目なし。旧版(1972)には「護国隊」で項目あり。
- ■自館システムの逐次刊行物の内容書名検索で「ダンキンタイ」を検索する。「甲斐路」58号(山梨郷土研究会 1986.11.30)に「断金隊萩原源五郎について」(安留巌著)、同74号(同 1992.8.1)に「断金隊士萩原源五郎陣中日記」(安留巌著)の論文があることがわかる。
- ■前記の論文中の記述から、『郷土史にかがやく人々』第16集(青少年のための山梨県民会議 1986)で「歌田靱雄」、『韮崎市誌』資料編(韮崎市役所 1979)で「断金隊出陣日記」を見る。
- ■「K27(歴史・近代)」の分類の書棚に直接当たる。『明治維新と甲斐の勤王』(山梨県神社庁 1971)の中に論文「戊辰戦争前後における国中草莽の活動」(佐藤八郎著)があり、断金隊について記述あり。
- ■前記の記述から、『山梨県史』第1巻(山梨県立図書館 1958)を見ると、「明治元年 政治部」に「断金隊軍記」ほか記述あり。
参考資料
- ◆『山梨県史』第1巻(山梨県立図書館 1958)
- ◆「甲斐路」58号(山梨郷土研究会 1986.11.30)
- ◆「甲斐路」74号(山梨郷土研究会 1992.8.1)
- ◆『明治維新と甲斐の勤王』(山梨県神社庁 1971)
- ◆『甲斐史学』第2巻、第3巻(甲斐史学会編 国書刊行会 1982)
調査にあたって
今回の調査ではある資料の記述から次の資料へと芋づる式にあたることができた。今回使った『山梨県史』は明治元年から13年までの山梨県の出来事を綴った歴史書で、当館が所蔵している山梨県行政文書(『古文書目録5』参照)に原本がある。
作成日:1996年8月28日
小野善太郎の履歴と、彼がかかわっていた有朋義塾について知りたい。
回答
有朋義塾は日本メソジスト教会が開いた男子キリスト主義教育機関で、明治27年11月15日に創立、明治42年10月廃止された。塾生には農・商業の子弟が多く、英・漢・数を教授した。「峡中文壇」は有朋義塾の生徒と教師が協力し発刊したもの。小野善太郎は日本メソジスト教会の重鎮。明治8年生まれ、福島県二本松藩士の長男。有朋義塾の2代塾長として明治35年に甲府に赴任。その後日下部教会、甲府教会などの牧師を務め、山梨県での伝道は約60年に及んだ。昭和40年没。
キーワード
■有朋義塾(ユウホウギジユク)■小野善太郎■キリスト教■峡中文壇
調査過程
- ■『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)で「有朋義塾」を検索、項目あり。
- ■前記資料の記述に「山梨英和女学校」名があったことから『山梨英和学院八十年史』(山梨英和学院 1969)で「有朋義塾」の記述を探す。「"はかま"の着用、卒業旅行、校歌、有朋義塾」の項あり。
- ■『山梨百科事典』で「小野善太郎」を引く。項目があり、「甲府教会」名が見える。
- ■自館システムの辞書検索で「コウフ キヨウカイ」を検索する。『日本基督教団甲府教会百年史』(日本基督教団甲府教会 1979)があることがわかる。
- ■『日本基督教団甲府教会百年史』で「有朋義塾」を探す。第三章二節に有朋義塾の設立と活動、三節に有朋義塾の閉校に関する記述がある。
- ■前項の資料の記述にあった雑誌「峡中文壇」を自館システムの逐刊検索でさがす。甲州文庫に第1巻1号(明治30年1月)から第2巻1号(明治31年2月)の所蔵あり。
- ■『日本基督教団甲府教会百年史』で「小野善太郎」を検索する。有朋義塾、第13、16代牧師時代、死亡に関する記述あり。
- ■「K19(キリスト教)」の書棚を見ると、『笛吹川にそそがれた恩寵-日本キリスト教団日下部教会伝道100年・設立80年』(日本キリスト教団日下部教会 1979)があり、第4章に小野善太郎に関する記述あり。
- ■自館システムの辞書検索で「オノ ゼンタロウ」をひくと、著書『甲斐よりパレステナへ』(甲府教会出版委員会 1958)があることがわかる。
参考資料
- ◆『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)
- ◆『山梨英和学院八十年史』(山梨英和学院 1969)
- ◆『日本基督教団甲府教会百年史』(日本基督教団甲府教会 1979)
調査にあたって
今回は記念誌として発刊されていたものが調査の助けとなった。雑誌「峡中文壇」は「峡中文壇社」の発行となっていて、データ検索では出てこない。現物に直接当たると住所の中に「有朋義塾内」の文字が見え、履歴が分かった。
作成日:1998年1月11日
日野春駅の信玄旗掛松の枯死に関する裁判について知りたい。
回答
信玄旗掛松は武田信玄が軍旗を立て掛けたという伝説をもつ松であったが、明治37年中央線が開通し、日野春駅線路すぐそばにあった松は汽車の煤煙・蒸気・振動によって枯死してしまった。そのことに対して、大正6年、甲村(現高根町)清水倫茂は国(鉄道院)を相手取り損害賠償請求訴訟を起こした。この事件は日本最初の公害裁判判例として有名である。
キーワード
■信玄旗掛松■日野春駅■中央線■公害裁判
調査過程
- ■『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)で「信玄旗掛松」「日野春駅」を検索するが、項目なし。
- ■『長坂町誌』(長坂町 1990)で「信玄旗掛松」「日野春駅」を検索する。上巻巻頭に信玄旗掛松の枯死前の写真、下巻の第八編第一章「交通」第一節「鉄道」に「日野春駅」の項目あるが、詳細な記述はなし。
- ■自館システムの逐次刊行物の内容書名検索で「ハタカケ」を探す。「甲斐路」74号(山梨郷土研究会 1992.8.1)に「歴史と伝説の間─「信玄旗掛松」その他」(影山政美著)の論文があることがわかる。論文中に、信玄旗掛松事件の経緯を詳しく知る資料として『甲斐路の夜明け』の紹介あり。
- ■自館システムの書名検索で「カイジノヨアケ」を検索する。所蔵があり『甲斐路の夜明け-「信玄旗掛松事件」とその社会的背景-』(新藤東洋男著 創研出版 1990)であることがわかる。
参考資料
- ◆『甲斐路の夜明け-「信玄旗掛松事件」とその社会的背景-』(新藤東洋男著 創研出版 1990)
調査にあたって
当初まとまった研究書はないと考え、『山梨百科事典』や『長坂町誌』をあたっていたが、詳細な情報を得られなかった。「甲斐路」は郷土に関するさまざまな分野を網羅する研究雑誌で、論文検索を可能にしてあったため、今回の調査で役に立った。『甲斐路の夜明け』には参考文献も詳しく掲載があり、関連する別の資料にもあたることができた。
作成日:1997年6月11日
甲府城御金蔵破りについて、事件の概要を知りたい。
回答
甲府城御金蔵破りは「御城内御金紛失一件」ともいわれる。1734(享保19)年12月24日の夜、甲府城内にあった金約1400両が盗み出されたという事件である。甲府勤番支配2名が処分されたほか、事件当夜警備のため宿直していた勤番士らも職務怠慢や虚偽報告、賭博などの罪によって処分がなされた。犯人は高畑村次郎兵衛で、事件から9年後の1742(寛保2)年に逮捕され、市中引き回しの上磔刑となった。「甲金録」は、この事件を題材にして、勧善懲悪物語として江戸時代に書かれたもの。
キーワード
■御金蔵破り■甲府城■御城内御金紛失一件■「甲金録」(コウキンロク)
調査過程
- ■江戸時代の事件とのことなので、甲府の歴史の関係資料にあたろうと思い、『甲府市史』通史編2巻「近世」(甲府市役所 1992)の目次を探す。第1章第5節3「御金蔵破りと綱紀粛正」の項目あり。
- ■関連で、「史料編」も確認。『甲府市史』史料編4巻「近世3」(甲府市役所 1987)に第8章第1節「甲府城御金蔵破り」がある。4点の古文書が翻刻されていた(翻刻されていた史料の原本は当館所蔵の甲州文庫と頼生文庫、若尾資料)。
- ■『甲府市史』通史編に記述のあった「甲金録」を探す。自館システムの資料名検索で「コウキンロク」を入力すると、甲州文庫に所蔵があることがわかる。
- ■甲府城の資料にもあたってみようと思い、『甲府城総合調査報告書』(山梨県教育委員会 1969)も見るが、記載はなし。
- ■『甲府城物語 -武田氏天目山に滅びず』(斎藤芳弘著 テレビ山梨 1973)には「ご金蔵破り」の項で10ページほど記載があった。
参考資料
- ◆『甲府市史』通史編2巻「近世」(甲府市役所 1992)
- ◆『甲府市史』史料編4巻「近世3」(甲府市役所 1987)
- ◆『甲府城物語 -武田氏天目山に滅びず』(斎藤芳弘著 テレビ山梨 1973)
- ◆「甲金録」巻一~巻六(出版社不明 1825)
- ◆「甲金録」巻七~巻十(出版社不明 1825)
調査にあたって
この質問を受けたときにはこの事件のことを全然知らなかったのだが、調べていくと、『甲府の歴史』(坂本徳一著 東洋書院 1982)や『甲州風物誌・続』(上條馨著 柳正堂書店 1961)といった資料にも記述が出てきて、けっこう有名な事件であることがわかった。有名な事件であったので、資料も早く見つけられて幸運だった。ただ、有名であればあるほど提供する資料はこれでいいのかな、他にもあるのかな、という不安はある。
作成日:1997年11月26日
「蕪庵」の俳人たちについて知りたい。
回答
蕪庵は18世紀後半から19世紀にかけて活躍した俳人五味可都里(現若草町)の号で、その後8世150年にわたって引き継がれた。2世は甥の蟹守で、蟹守からは、小尾守彦(現高根町)に引き継がれ、以後高根の俳人たちが継承した。4世清水彦貫-5世植松田彦(守彦次男)-6世小尾四友(守彦三男)-7世雨山無畏-8世浅川荊洲。8世荊洲は1931(昭和6)年に亡くなった。
キーワード
■蕪庵(カブラアン)■俳諧■五味可都里(ゴミカツリ)■高根町
調査過程
- ■俳人ということなので、まずは文学館の図録にあたってみようと思い、『山梨の文学-開館記念』(山梨県立文学館 1989)にあたる。「五味可都里の周辺」の項に記述あり。8世まで150年続いたことがわかる。また、同書を追っていくと、4世までの名前が判明。
- ■『山梨百科事典』増補改訂(山梨日日新聞社 1989)で蕪庵4世までの名前「五味可都里」「五味蟹守」「小尾守彦」「清水彦貫」で検索する。小尾守彦、清水彦貫の項目なし。
- ■『甲斐志料集成』7巻「史伝・文芸」(萩原頼平編 歴史と図書社復刻 1981)に掲載の「峡中俳家列伝」(佐藤二葉、松本守拙著)で「小尾守彦」「清水彦貫」を引くと、項目あり。二人とも「甲村」の人だということがわかる。
- ■『角川日本地名大辞典』19巻「山梨県」(角川書店 1984)で「甲村」を検索。現在の高根町であることが判明。
- ■文学館の図録で、北巨摩を取り扱った『龍之介・牧水・普羅と八ヶ岳-北巨摩の文学』(山梨県立文学館 1996)を見る。「近世の俳人たち」の項目で蕪庵を取り上げ、また「八ヶ岳南麓の俳諧」(白倉一由著)のコラムもあった。
- ■『高根町誌』通史編下巻(高根町 1989)で俳諧に関する項目を探す。第5章第1節「俳文芸」に小尾守彦以降の蕪庵の宗匠に関する記述あり。
- ■1世と2世は現若草町の人なので、『若草町誌』(若草町 1990)を見る。五味可都里と蟹守について若干記述があった。
参考資料
- ◆『高根町誌』通史編下巻(高根町 1989)
- ◆『龍之介・牧水・普羅と八ヶ岳-北巨摩の文学』(山梨県立文学館 1996)
調査にあたって
文学館や美術館、郷土資料館といった博物館施設で発行した図録は、それぞれの持つ専門分野に関係する調査に非常に有効である。写真図版が豊富で、それぞれの資料の所蔵が明確に記されており、解説が的確でわかりやすい。個人的に気に入ってつい使ってしまうツールである。「峡中俳家列伝」の原本は、俳人松本守拙の口述を佐藤二葉が記録して「甲斐新聞」に連載し、それをまとめて1906(明治39)年に太古庵発行された資料。江戸から明治にかけての甲州の俳人を調べるのには欠かせない。
作成日:1997年10月15日
「山梨県風俗保安条例」の全文を知りたい。
回答
「山梨県風俗保安条例」は売春を取り締まることを目的としたもので、1952(昭和27)年6月13日に施行がなされた。「山梨県報」昭和27年6月13日付号外に掲載あり。
キーワード
■山梨県風俗保安条例■風俗保安条例■条例■売春
調査過程
- ■『山梨県例規集』1巻(ぎょうせい)の五十音索引で「風」の項目を引くが、該当する条例名なし。
- ■依頼者から昭和27年制定ということを聞いたので『山梨県例規集』の年別索引を引く。1952(昭和27)年に条例第16号で制定され、1958(昭和33)年に条例第17号で廃止になっていることがわかる。
- ■条例は制定されると公報に掲載されるから、「山梨県報」昭和27年を見る。月別の目録を索引として利用することができるのだが、たまたまこの年はそれが多く欠損していたため、探すのに時間がかかると判断。他の資料で絞り込むことにする。
- ■条例制定には議会の審議と可決が必要だと考え、『山梨県民主議会史』第2巻(山梨県議会 1956)の昭和27年の部分を探す。「5月定例会」の項に「山梨県風俗保安条例-修正可決/修正案」として条文の全文が掲載され、附則に「この条例は昭和27年6月13日から施行する。」と記述あり。
- ■「山梨県報」昭和27年を再度確認。昭和27年6月13日付号外に、掲載があった。
参考資料
- ◆「山梨県報」昭和27年6月13日号外
調査にあたって
『山梨県例規集』は山梨県が制定した条例と規則、規程が掲載されている資料で、現在10巻まである。形態は加除式で、定期的に内容の更新がなされる。現行の条例がすべて網羅されていて非常に便利であるが、廃止や失効になったものや、改訂がなされる前の条文といったものは見ることができない。一応、1881(明治41)年からの年別索引が付いているので、根気よく探すと、いつ作られたかはわかるようになっている。現在廃止されたものは、その成立時の「山梨県報」(現在は「山梨県公報」)と組み合わせてみる必要がある。議会の資料は議会史としてまとめられたものを今回は使ったが、もちろん各会議ごとにまとめられた「会議録」でも調べられるし、可決までの議会での審議内容などが知りたい場合はそちらの方が詳しい。今回調査した「山梨県風俗保安条例」が制定された背景には、昭和21年に公娼制度が廃止され、街娼などが増加したのに、それを取り締まる法律がなかったことがあった。(『山梨県警察史』下巻(山梨県警察本部 1979))。昭和33年にこの条例は廃止されたが、それは国による法律「売春防止法」が制定され、それを全面施行するにあたって廃止されたからである(『山梨県定例県議会議案 昭和33年2月』)。条例の制定には社会背景も深く関わっているんだなと改めて感じた。
作成日:2000年3月31日
『富士山の自然界』に掲載されている小野湖山の漢詩の書き下し文はないか。
回答
漢詩のタイトルは「登嶽」で、富士山に登ったときの詩。『日本漢詩鑑賞辞典』(猪口篤志著 角川書店 1980)に読み下し、意味の解説がある。小野湖山(1814~1910)、漢詩人。名は長愿。近江の医師横山玄篤の子。吉田藩に儒臣として任官したが、尊皇攘夷を唱え、安政の大獄の時には8年間禁錮幽閉された。維新後は総裁局権弁事などを務めた。廃藩置県後は東京に出て、のち大阪に優遊吟社を結成するなど詩壇に名をはせた。『湖山楼詩鈔』8巻等の著作がある。
キーワード
■小野湖山(オノコザン)■「登嶽」■漢詩■富士山
調査過程
- ■『富士山の自然界』(山梨県 1925)のp204に「鶴駕鸞驂......」に始まる詩が掲載されていることを確認。漢詩はそれ1つが1ページに掲載されていて、前後には特に解説もなし。
- ■『山梨百科事典』増補改訂(山梨日日新聞社 1989)で「小野湖山」を検索するが、項目なし。
- ■自館システムの辞書(人名・件名)検索で「オノ コザン」を検索。『小野湖山翁小伝』(豊橋市 教育委員会 1931)があることがわかる。甲州文庫に『湖山楼詩集』(玉池吟社 1859)があったが、調査している詩はなし。
- ■『小野湖山翁小伝』から郷土の人ではないことがわかり、著名な人らしいこともわかった。もしかして掲載があるかもしれないと思って、『日本漢詩鑑賞辞典』を引いてみる。「湖山小野長愿」で3項目掲載があり、そのうちの「登嶽」が目的のものとわかる。読み下しと意味があった。
参考資料
- ◆『日本漢詩鑑賞辞典』(猪口篤志著 角川書店 1980)
調査にあたって
最初、郷土人だと思って調査していたが、進めていくうちに全然違うことが判明。漢詩人として名をなした人であることがわかった。そうなると、調査に使う資料は郷土資料以外のものが中心になる。ときとして、調べていくうちに、郷土資料以外の資料の方が有効だったり、またインタビューの段階でよくよく聞いていくと実は郷土のことではなかったというのが出てくる。特に、「甲州」という言葉がつく固有名詞とか、「武田氏」についてそれがいえる。そうなると、郷土資料と一般資料の両方を駆使してあたることになる。この質問のホントの元は『火の山-山猿記』(津島祐子著 講談社 1998)。この小説に『富士山の自然界』から引用がなされていた。『火の山』は谷崎潤一郎賞なども受賞した話題作。それならではの質問、といったところであろうか。
作成日:2000年3月31日
太宰治夫人・津島美知子が教師をしていたのは何年のことか。
回答
津島(旧姓・石原)美知子は、1933(昭和8)年8月4日に都留高等女学校に着任。地歴の教諭として教壇に立ち、学級主任・排球部の副顧問・寄宿舎の舎監を務めた。1938(昭和13)年9月18日太宰と見合いし、同年12月24日付けで退職した。
キーワード
■津島美知子■太宰治■都留高等女学校
調査過程
- ■『現代日本女性人名録』(日外アソシエーツ 1996)などの現代人名辞典を見るが、「津島美知子」の記載なし。
- ■自館システムで「ツシマ ミチコ」を辞書(著者)検索し、著書『回想の太宰治』増補改訂版(人文書院 1997)を見るが、年譜や略歴の記載なし。また、本文にも教師をしていた旨の記述なし。
- ■山梨日日新聞データベースで「津島美知子」を検索。1997(平成9)年2月2日に「訃報 太宰治の妻、甲府出身津島美知子さん死去」の記事があり、内容を確認したところ、「甲府高女、東京女高師を卒業。都留高女(現都留高)の教師となった。」との記載あり。
- ■郷土資料閲覧室に行き都留高校の記念誌を探す。『同窓-都留高のあゆみ』(山梨日日新聞社 1983)の目次に「都留高等女学校・教諭集め」の項あり。「教諭集め」の項には「つつましやか太宰夫人」の副題があり、内容を確認すると、着任日及び退職日の記載あり。
参考資料
- ◆『同窓-都留高のあゆみ』(山梨日日新聞社 1983)
調査にあたって
著書があるので人名辞典に記載があるかと思ったが、見付けられなかった。近年亡くなったことがわかっていたので、山梨日日新聞データベースで新聞記事を見ることにしたが、詳しい経歴の記載はなかった。しかし、新聞記事により教師をしていたのが都留高等女学校だとわかったので、何か手がかりがあればと思い都留高校の記念誌を見たが、予想以上に記述が多く、教師としての彼女の様子がよくわかる興味深い内容だった。
作成日:1998年6月14日
江戸期に庄内地方(山形県)で活躍した荒川村(現・甲府市)出身の心学者「五味長治郎道秀」について知りたい。
回答
五味長治郎道秀は、荒川村(現・甲府市)の出身で、寛政期から文化期にかけて、師の北条玄養とともに奥州・庄内地方へ心学の教化活動のために赴いている。
キーワード
■五味長治郎■五味道秀■心学■石門心学
調査過程
- ■『山梨百科事典』にあたると、石門心学の学舎である甲府の洗心舎を創設した「五味安兵衛道久」という荒川村出身の心学者の名が見つかるが、長次郎道秀との関わりなどは書かれていない。
- ■『角川日本姓氏歴史人物大辞典』19山梨(角川書店 1989)『甲斐国志』『甲府市史』ほか、山梨県の人物資料や江戸期の甲州に関する資料を調査すると、『人づくり風土記』19山梨(農山漁村文化協会 1997)に甲州の心学者が教化活動のため諸国に赴いている旨の記載があったが、五味長治郎については書かれていない。
- ■一般の人名事典類に当たるが記述なし。また、『国書総目録』(岩波書店 1991)の著者索引にもない。
- ■山形県の歴史関係の資料にあたる。『人づくり風土記』6山形(農山漁村文化協会 1991)に心学のことが詳しく載っていたが、五味長治郎道秀については記載なし。
- ■心学関係の資料にあたると、『石門心学史の研究』(石川謙著 岩波書店 1938)の中に「『御高札寫心学歌聞書』(鶴岡市図書館所蔵)の覚書を見ると同じ荒川村に五味長治郎道秀という心学者があって・・」との記述がみつかる。
参考資料
- ◆『石門心学史の研究』(石川謙著 岩波書店 1938)
- ◆『甲斐路』36号(山梨郷土研究会)
調査にあたって
後日、山梨郷土研究会で発行されている『甲斐路』36号に、「甲斐における石門心学」(野沢昌康著)の論文があるのを見つけた。そこに長治郎道秀は安兵衛道久の弟との記述があったのでその旨も利用者に回答した。県出身者といえども、県内で活躍していないと郷土資料の中には出てこないことが多い。一般の資料を重点的に調査するほうが手がかりを見つける近道になることもある。
作成日:2001年9月11日
山梨日日新聞の平成14年1月28日に「禹之瀬の開削」が「山梨の三大無理な話」のひとつとして紹介されていた。他のふたつは何か知りたい。
回答
山梨における三大無理な話、あるいは三つの悲願の一つ目は「野呂川話」といわれる一大導水構想(野呂川の水を御勅使川の扇状地にあたる原七郷の地にひく)、二つ目は「無理な話は(できない相談)禹之瀬の開削」といわれる河道拡幅構想(水の出口を拡幅することによって河川沿いの低湿地域を水害から守る)、三つ目は、「開かずの国道雁坂峠」といわれる山梨と埼玉を結ぶトンネル工事のこと。
キーワード
■三大無理な話■野呂川■雁坂峠■兎之瀬
調査過程
- ■山日のデータベースやインターネットで検索するが、他の記事はヒットせず。
- ■『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)『日本歴史地名大系』19山梨県の地名(平凡社 1995)などの事典類で「禹之瀬」の項目を探すが、「無理な話」については載っていない。
- ■『図説山梨県の歴史』(磯貝正義編 河出書房新社 1990)『山梨県の歴史』(飯田文弥ほか著 山川出版社 1999)のコラム欄などを探すが見当たらない。
- ■言葉の方面から捜せないかと思い、方言に関する資料や民俗関係の『甲州の地口』(志摩阿木夫著 山梨日日新聞社 2001)等の資料を探すが記述はない。
- ■禹之瀬は鰍沢町にあるので、『鰍沢町誌』(鰍沢町 1996)にあたる。すると「禹之瀬河道整正事業」項目に「禹之瀬の開削の河川改修は[出来ない相談、禹之瀬の開削]等といわれ不可能な事の代名詞になっていた」とあったが、他の二つについては記載がない。
- ■「禹之瀬の開削」について、上記の町誌では土木事業の項目にあったことから、他の二つも治水や土木事業に関することではないかと思い、土木事業関係、治水関係の資料にあたる。すると、『甲斐路と富士川』(竹林征三著 土木学会山梨会 1996)に「三つのかなわぬ夢の悲願達成に向けて」という項目に記載があった。
参考資料
- ◆『甲斐路と富士川』(竹林征三著 土木学会山梨会 1996)
調査にあたって
以前は、実現不可能なことをたとえるときによく使われた言い回しであったようだが、最近では聞くことはほとんどない。現在ではすでに解決されているせいだろうか。
作成日:2002年2月10日
静岡県に山梨県の飛び地があるそうだが、それはどこか知りたい。
回答
『山梨百科事典』によると「静岡県の清水市港町向島にある山梨県有地。付近4.4アールの地は1741(寛保1)年から甲州年貢米を富士川をくだし、江戸へ回送する船積みのため回米置き場を置いた場所。その後1876(明治9)年、富士川運輸会社が清水出張所を置き、沿岸回そう業を行ったなどの変換があって県有地として残った。現在は道路拡張用地となって2.060平方メートルが民間用地として貸し付けられ、同地の鈴与株式会社が県の委託を受けて管理に当たっており、北すみの民家裏に水揚稲荷(みずあげいなり)が祭られ、往時のなごりをとどめている。1961(昭和36)年12月に清水市によって「甲州廻米置場跡」の石碑が巴川の港橋畔に建てられた。」と記述がある。
キーワード
■県有地■飛び地■清水市
調査過程
- ■地理に関することなので、まずは『日本歴史地名大系』19 山梨県の地名(平凡社 1995)と『角川日本地名大辞典』19 山梨県(角川書店 1984)にあたるが、静岡県に飛び地があるという記述は見つからない。
- ■同じく『日本歴史地名大系』22 静岡県の地名(平凡社 2000)にもあたってみるが、記述なし。
- ■インターネットのYAHOOで「山梨県の飛び地」と「静岡県」というキーワードで検索してみると、静岡県立清水東高校の郷土研究部の学校祭パンフレット(http://www.wbs.ne.jp/cmt/kiyokou/cl_kyou/toukai.htm)の中に、「甲州の米は富士川を川船で運ばれ、清水湊で千石船に積み込まれて江戸へ向かう。その積み込み場「甲州廻船置場」跡が港区一丁目の巴川左岸にあり、石碑が建つ。置き場の一部2060平方メートルは現在も山梨県の飛び地で、ここに住む十数軒は毎年借地料を山梨県に納めている」という記述があった。
- ■江戸時代に始まる富士川舟運に関連して清水湊にできた飛び地、ということなので、『山梨県歴史の道調査報告書』第19集 富士川水運(山梨県教育委員会 1991)や『富士川水運史』(青山靖著 地方書院 1959)にあたってみるが、清水湊に関する記述は見つからない。
- ■『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)を調べてみると、「清水港県有地」という項があり、詳しく記述されていた。
参考資料
- ◆『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)
調査にあたって
作成日:2003年9月16日
大月市の桃太郎伝説について知りたい。
回答
「百蔵山(ももくらさん)にたくさんの桃の木があった。川でおばあさんに拾われた赤ん坊は桃太郎と名付けられた。桃太郎が大きくなったころ、人々は、九鬼山(くきやま)から追い出され岩殿山(いわどのさん)に住み着いた鬼に悩まされていた。桃太郎は犬目(上野原町)で犬、鳥沢でキジ、猿橋で猿を従えて鬼退治に行った。」との伝説がある(資料により若干の記述の違いがある)。鬼が投げたといわれる石の杖が大月市賑岡町にある。また、談合坂(上野原町)の地名も、桃太郎伝説の「団子坂」が改名されたという説がある。
キーワード
■桃太郎■伝説■昔話
調査過程
- ■『山梨百科事典』増補改訂(山梨日日新聞社 1989)で「桃太郎」を検索するが、項目なし。
- ■『甲斐路ふるさとの民話と民謡』(山梨県編 山梨日日新聞社 1991)、『全国昔話資料集成』16 甲州昔話集(土橋里木著 岩崎美術社 1975)、『日本の伝説』10甲州の伝説(土橋里木・土橋治重共著 角川書店 1976)で「桃太郎」を検索するが、記述なし。『山梨県の民話と伝説』(土橋里木著 有峰書店 1979)索引に「桃太郎」があるが、大月の伝説に関する記述なし。
- ■山梨日日新聞記事データベースで「桃太郎」を「県内」地域指定で検索すると、数十件の記事が該当。記事を見て行くと、「桃太郎の古里売り出せ 地域おこしへ積極PR」(1989年2月7日付)、「山梨百名山 42」(1997年12月19日付)、「山梨百名山 45」(1998年1月16日付)、「やまなしマップ百科 大月市」(1998年4月21日付)、「やまなしマップ百科」(1998年5月12日付)に関連の記述あり。
参考資料
- ◆「山梨日日新聞縮刷版」1989(平成元)年2月号、1998(平成10)年4月号・5月号
- ◆『山梨百名山』(山梨日日新聞社 1998)
調査にあたって
民話・伝説関係資料に少なくとも1冊は記述があるのではと当初考えていたが、あたった資料には出てこなかった。利用者の求める情報が出版された本の中には見られないが、新聞の記事にはあるということも多い。いままで新聞記事を探す手段は縮刷版の目次をひたすら繰るしかなかったが、データベースを利用することによって確実に早く探せるようになった。
作成日:1998年10月21日
舞鶴公園にあった機山館の写真がみたい。
回答
『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 甲府』(飯田文弥、坂本徳一、小林是綱共編 国書刊行会 1978)の34~35ページに、機山館外貌の写真が2枚、内部の写真が1枚あります。他に、甲州文庫の『写真絵はがき類・行幸啓』の中にも、明治45年に東宮殿下が行幸した際に旅館として使われた機山館の写真があります。
キーワード
■機山館■洋館■旅館
調査過程
- ■まず機山館を調べるため『山梨百科事典』(山梨日日新聞社 1989)にあたる。「機山館」の項目があり、そこには「舞鶴城跡旧稲荷曲輪(県立青少年科学センターの位置)にあった山梨県公会堂。武田千代三郎知事の推進によって建てられた洋館」で、「1906(明治39)年9月1日に完工し開場した」とある。さらに「開場した年の10月1日より山梨県主催で開かれた関東1府9県連合共進会では第一会場として使用され」、「1938年に焼失」とあった。
- ■洋館から調べることにし、『山梨の洋風建築』(植松光宏著 甲陽書房 1977)にあたるが、みつからない。
- ■甲府市の歴史の本にあたってみる。『明治・大正・昭和写真集 甲府90年』(甲府市役所 1981)と『図説甲府の歴史』(萩原三雄監修 郷土出版社 2000)には、関東1府9県連合共進会の様子が掲載されているが、機山館はみつからない。『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 甲府』(飯田文弥、坂本徳一、小林是綱共編 国書刊行会 1978)の収録写真一覧を確認すると、「官公署」の項目のところに機山館を見つけることが出来た。
- ■さらに甲州文庫収蔵の『写真貼込帳』と『写真絵はがき類』にもあたる。『写真絵はがき類・行幸啓』の中に、明治45年東宮殿下行幸記念絵はがきとして出されたものの一つとして、「御旅館 機山館」の写真があった。
参考資料
- ◆『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 甲府』(飯田文弥、坂本徳一、小林是綱共編 国書刊行会 1978)
- ◆『写真絵はがき類・行幸啓』(甲州文庫収蔵)
調査にあたって
作成日:2002年12月1日