山梨とぶどう年表
(江戸時代まで) |
西暦 年号 |
山梨とぶどう関連事項 | 日本史 | |
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718 養老 2 |
僧行基、柏尾(現勝沼町)に大善寺を創設する その境内にぶどうの苗を植える(行基ぶどう導入伝説) |
710 平城京遷都
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1186 文治 2 |
上岩崎(現勝沼町)の住民雨宮勘解由、野性のぶどうを発見、 自分の畑に移植し栽培する(勘解由伝説) |
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1191 建久 2 |
雨宮勘解由が栽培した甲州ぶどうが実をつける | 1192 鎌倉幕府成立 | |
1197 建久 8 |
雨宮勘解由、信州善光寺参詣帰途の源頼朝に甲州ぶどうを献上 | ||
1274 文永11 |
日蓮、波木井氏の招きで身延の草庵に入る(久遠寺の始まり) | 1274 文永の役
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1286 弘安 9 |
大善寺の再建始まる | 1333 鎌倉幕府滅亡 1338 室町幕府成立 |
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1521 大永 1 |
武田晴信(信玄)、積翠寺要害城で生まれる | 1467 応仁の乱 | |
1542 天文11 |
晴信、信濃諏訪郡を攻略 | 1543 鉄砲伝来 | |
1549 天文18 |
武田家臣の長坂筑後守、雨宮織部正にぶどう献上の感状を贈る | 1549 ザビエル、キ リスト教を伝 える |
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1553 天文22 |
晴信、越後の長尾景虎(上杉謙信)と川中島で戦う(第1回川 中島の戦い。以後1555、57、61、64年の5回戦う) |
1568 織田信長上洛 |
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1573 天正 1 |
武田信玄、信濃駒場で死去(53才) | 1573 室町幕府滅亡 | |
1575 天正 3 |
武田勝頼、織田・徳川連合軍に大敗(長篠の戦い) | ||
1582 天正10 |
武田氏滅亡 | 1582 本能寺の変 | |
1593 文禄 2 |
浅野長政、甲斐を領し、甲府城の築造を進める | 1590 豊臣秀吉、天 下統一 |
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1594 文禄 3 |
浅野長政・幸長父子、ぶどう、ももなどの果実の栽培を奨励する (甲斐八珍果実の起源説) |
1600 関ケ原の戦い | |
1615 元和 1 |
甲斐の徳本、上岩崎の雨宮家に滞在、ぶどうの棚架け法を考案 する |
1603 徳川家康、江 戸幕府を開く |
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1632 寛永 9 |
甲斐国、幕府直轄領となる | ||
1683 天和 3 |
松尾芭蕉、甲斐に来遊 | 1639 鎖国の完成 | |
1695 元禄 8 |
『本朝食鑑』刊行、ぶどうの産地として「甲州を第一」とする 記述がある |
1685 徳川綱吉、生 類憐れみの令 を出す |
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1697 元禄10 |
『農業全書』(宮崎安貞著)刊行、甲州ぶどうの栽培法を解説 する |
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1704 宝永 1 |
柳沢吉保、甲府城主となる | ||
1706 宝永 3 |
荻生徂徠、柳沢吉保の使者として入国、『峡中紀行』にぶどう を「蒲桃」、甲州種ぶどうを「馬乳」とする記述を残す 柳沢氏、甲州金(甲安金)の鋳造を行う |
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1723 享保 8 |
甲府八日町の菓子舗、牡丹亭金升がぶどう菓子「月の雫」を製 造、販売(享保説) |
1716 享保の改革 | |
1724 享保 9 |
甲斐国天領となり、代官支配行われる(甲府勤番支配設置) | ||
1771 明和 8 |
雨宮栄吉、祝村(現勝沼町)のぶどう苗を移植し、大門村(現 市川大門町)にぶどう園を開く |
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1772 安永 1 |
雨宮栄吉、自家ぶどう園の苗を羽黒村、山宮村(現甲府市)に 移植する(ぶどう栽培の広がり) |
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1783 天明 3 |
甲州ぶどうの江戸出荷をめぐり、勝沼と羽黒、山宮村民が対立 する |
1787 寛政の改革 | |
1805 文化 2 |
甲府八日町の菓子舗、満寿太屋武藤太郎右衛門がぶどう菓子 「月の雫」を製造、販売(文化説) |
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1814 文化11 |
『甲斐国誌』編纂終わる、ぶどう栽培などについて記述あり | 1833 天保の大飢饉 1841 天保の改革 |
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1857 安政 4 |
『甲州道中膝栗毛』(仮名垣魯文著)刊行、勝沼宿を描く | 1853 黒船来航 1858 日米修好通商 条約締結 |
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1866 慶応 2 |
俳人霞江庵翠風、『甲州道中記』の中でぶどうの砂糖づけの 図を描く |
1867 大政奉還 |
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