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甲州文庫概観



甲州文庫扁額(こうしゅうぶんこへんがく)

甲州文庫扁額(0400215133-001)

 功刀亀内氏が収集した資料が「甲州文庫」と命名されたのは、昭和2年(1927)のことだといわれています。この扁額は、明治・大正期の洋画家で知られる中村不折(なかむらふせつ)の書になるもので、功刀氏は資料に埋もれた自室にこれを掲げ、大事にしたと伝えられています。なお、中村不折に関しては、森鴎外が自身の墓石を不折の書で刻むことを遺言したというエピソードが残されています。



功刀亀内氏肖像(くぬぎきないししょうぞう)

功刀亀内氏肖像(0400215216-001)  甲州文庫主功刀亀内氏は、明治22年(1889)山梨県中巨摩郡豊村(櫛形町)に生まれました。功刀家は、代々蚕糸業を営んだ家柄で、その三男として育ち、のちに甲府で糸繭商となりました。資(史)料収集家としての道をたどることになったきっかけは、大正期甲州財閥の雄だった若尾家によってすすめられていた『山梨県志』の編纂所に出入りするうちに、その編纂委員だった土屋夏堂(つちやかどう)に出会ったことだったといわれます。夏堂によって散逸しつつある古文書などの史料の重要性を認識させられた功刀氏は、以後取り憑かれたように甲斐国(山梨県)に関する史料の収集に没頭するようになりました。こうして集められた厖大な資料群は、昭和2年、氏によって「甲州文庫」と命名され、江戸期から明治以降にかけての甲州庶民の生活・文化の一大資料の集積と位置づけられるようになったのでした。氏は甲府から東京に移った後も蒲団業の仕事は家族まかせにして資料収集に熱中したといいます。
 甲州文庫は太平洋戦争中は郷里の山梨に疎開して、戦災の難からも逃れ今日に伝えられました。そして、戦後の昭和24年甲府市で開催された「甲府市制60周年記念郷土史展」で山梨県にはじめて紹介され、人々を驚かせたのでした。それを機に、この貴重な資料を山梨へという声が起こり、それに応える形で昭和26年山梨県に譲られることになりました。このころの経緯については、功刀氏自身が新聞の切り抜きなどを丁寧に整理した「甲州文庫記事」などにも詳しいのですが、氏はこの時の心境を「娘を嫁にやるようなものだ」と漏らされたそうです。甲州文庫は、その後山梨県立図書館によって20年の歳月をかけて整理され、現在に至っています。この肖像写真がいつごろのものかわかりませんが、風貌からして晩年、つまり甲州文庫が山梨県に移管された前後、昭和20年代の終わりから30年代にかけてのものではないかと推測されます。



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