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2019/3/2 山梨県地場産業センターで出張トークを行いました

 2019年3月2日(金曜日)、山梨県地場産業センター(かいてらす)で出張トークを行いました。約280名という大勢の小中学校PTA関係者の皆様方を前に「国語の四技能」と題して、講演を行いました。ユーモアを交えての話に聴衆の皆様方は興味深そうに聞き入っていました。
 





会場の様子(会場の様子
  

  国語(言葉)の四技能であるが、これは、文部科学省が考えたことである。話す、聞く、読む、書くということで役割、機能が4つある。コミュニケーションであり大切なことである。私たちは、普通は言葉で考える。もし、言葉がなかったら考えることができない。考えるという機能はよく解らないので4技能に入っていない。言葉でおいしいと感じたり、考えたりできる。例えば、「刺身」と言うと、おいしいと感じるが、「死んだ魚の生の肉」と言ったら食べる気がしない。

 子どもは内言といって、頭の中で考えたことをそのまま口に出す。ひっきりなしにしゃべる。正直である。この傾向は5歳くらいまであり、以降は、うそがつけるようになる。考えたことと言うことが不一致であっても構わないということを学ぶ。だからうそをつけるようになると成長する。  考えることが言葉の最も大きな働き、機能であり、言葉で理解できて考えることができる。だから、言葉を沢山知っていることが子どもの発達に関して大切である。本を読んで言葉を増やすこと、語彙を増やすことが重要である。

 言葉はすべての科目の基本にある。自分で考え、判断して、表現できる、これが教育の目的である。それができればどんな社会になっても自分の力で生きていけるのではないか。そのためにも、言葉の働きとして、前提として、考えることがある。

 センター試験などで英語のリスニングがあって、日本語のそれがないのはなぜか。聞き取ったことの要約を書かせるくらいのことをしたらどうか。「英国王のスピーチ」という映画の中で、吃音者はスピーチができないから王様になれないという場面がある。話すことができないと王様になる資格がないと考える。また、米国では、スピーチの授業があり、米国人はしゃべること、プレゼンテーションがとても好きである。

 その映画では、訓練して吃音を一生懸命直す。必死になって吃音を直しスピーチをして戦時下の国民を鼓舞した。王様はしゃべれなくてはならない。アジテーションをしなくてはならないから。  日本人は、しゃべるということを大切だと思っていない。教科としての国語では、しゃべることをきちんとできるように、聞いている人に解るように、そういう教育、訓練がされていない。日本の天皇にはしゃべることは求められていない。むしろ、先祖の神様に向かってしゃべる「祝詞」である。一方、英国人の王様は国民に向かってしゃべる。日本の学校では、絵、書道、音楽はやるが、演劇はやらない。しゃべる訓練という意味で演劇をやるべきである。

 日本人は英会話が苦手と言われるが、それは、会話をしないということ。特に初めての人とはあまりしゃべらない。小学校では3,4年くらいから手が挙がらなくなる。外国人を相手に教えていると、学生がしゃべってくれる、発言してくれるから講師はあまりしゃべらなくて済む。日本人相手ではしゃべらなくてはならない。

 今、危ないところに来ていると感じている。今の教育は、社会に役立つ人材をつくることを一番に考えている。ノーベル賞受賞者の大村智先生がおっしゃった。人の役に立とうと思って研究をしたのではない。ただ好きだからやっただけであると。なかにし礼氏も、自分が訊いた時に、苦労はしていないが苦心はしたとおっしゃった。苦労、我慢は要らない。好きなことを一生懸命することが大切であると思う。 私たちはコストパフォーマンスを意識して生きているが、もう行き詰まっている。忙しくなるばっかりである。リニア新幹線ができて便利になっても、その分他の仕事が入ってきて、また忙しくなる。こういうことが永遠に続く。仕事がなくならない。効率、時間を徹底して追い求めた結果、気持ちがすり減っていき不幸せになっていく。

 社会では、効率良く、役に立つといった「交換」の原理が何か至上命令のようになっているが、実はもう破綻しているのではないかと思っている。違う道として損得ではない「贈与」がある。それは、要するに報酬を求めない、只々好きなこと、おもしろいことをやる。こういう形の働き方がある。3,4千年前は好きなことを好きな人がやっていた。2千年前にお金ができてから交換、儲けが意識されるようになった。

 教育にも交換の原理、実学が持ち込まれている。教育の世界は贈与であり、いつかは人間としてきちんと生きていけるようになれることを目指しているはずである。今、年号も変わろうとしている。時代の境目である。

 








会場の様子
(会場の様子)