【回答】
【調査過程】
■『韮崎市誌』資料編(韮崎市 1979)の「金石文」の項に、新府城址の石碑2点の写真あり。1つは長篠の戦いの分骨慰霊碑、もう1つは城址にある藤武神社のいわれが書かれている石碑。依頼者によると、かなり大きく立派な石碑で、武田家のいわれが書かれているらしいとのことなので、どちらも該当するものではない。その他韮崎市関係の資料や記念碑・漢字碑の資料を見るが記載なし。
■新府城址のある韮崎市の韮崎市立図書館へ問い合わせる。『韮崎市誌』刊行後、比較的最近になって大きな石碑が建てられたようだが、詳細については調査してみるとの回答をいただく。
■インターネットで検索する。テレビドラマの影響か山梨県に観光で訪れる方も多く、ブログ等で新府城に関する記載が多く見つかる。その中に「昭和57年に建てられたらしい武田氏滅亡400年記念の碑」と書いているページを発見。
■1982(昭和57)年の「広報にらさき」(韮崎市 1982)を調査。5月号の表紙に新府城址に大きな記念碑が建立されたことが記載されていた。また『山梨日日新聞縮刷版』1982(昭和57)年4月号(山梨日日新聞社 1982)に21日付けで記事があり、除幕の様子などが書かれていた。どちらも写真を掲載。
■韮崎市立図書館からも同様の回答をいただいた。
【キーワード】
■新府城■石碑■記念碑■武田家■韮崎市
【参考資料】
◆「広報にらさき」1982(昭和57)年5月号(韮崎市 1982)
◆「山梨日日新聞縮刷版」1982(昭和57)年4月号(山梨日日新聞社 1982)
【調査にあたって】
「少し前」の情報が「本」という形になるまでには時間がかかる。多様な資料を収集・保存していくことの大切さを、改めて認識した。新聞記事によると除幕式は武田家当主なども出席する盛大なものだったようで、400年以上経った今も続く武田家への思いを感じた。
作成日:2007/12/7
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