? 武田信玄の次男(竜宝・竜芳)は目が不自由だったというが、生まれつきのものか、病気によるものか。

【回答】

弘治2(1556)年9月吉日付で信玄が瑜伽寺本尊薬師如来に捧げた願文には、疱瘡にかかり失明した次男・聖導(しょうどう・後の竜宝)の快癒を願う内容が記されている。これまで聖導は生まれながらの盲目とされてきたが、この願文により15歳(聖導は天文10(1541)年生まれとされる)で疱瘡にかかり失明したことがうかがえる。願文は現存しないが、米沢市立図書館蔵『歴代古案』に書写されたものが残っている。

【調査過程】
■『新編武田信玄のすべて』では、執筆者により「生まれながらの盲目」「弘治2年に失明」と二つの説がみられる。
■『甲陽軍鑑』には盲目であることだけが書かれている。『甲斐国志』には「康富記等ニ見ユ竜宝生レナガラ亡明」とある。『武田信玄大事典』なども生まれながらの盲目としている。
■「ザやまなし」268号に連載の「素顔の武田信玄7 竜宝への愛(上)」に、弘治2年に武田信玄が捧げた願文の写しが米沢市立図書館蔵『歴代古案』に残されており、聖導の目の快癒を祈る内容であることを、2003年に報告したとある。
■山梨日日新聞データベースで「竜宝」をキーワードに2003年に絞って検索する。7月24日23面に「二男治癒へ親の情愛」という見出しの記事がヒットする。その中で『戦国遺文武田氏編』第3巻の月報で発表したとある。
■『戦国遺文武田氏編』第3巻月報に掲載の「武田信玄の人間像」文中に、「通説では、聖導は生まれながらにして盲目であったとされてきたが、これは全くの誤りであり、少なくとも弘治2年秋までは両眼は健常であったのである。」とある。
■山梨県立博物館学芸員からも、説が正しいこと、願文は『戦国遺文 武田氏編』第1巻に掲載されている「510武田晴信願書写」であるとの回答をいただいた。
■『武田信玄からの手紙』(山梨県立博物館監修 山梨日日新聞社 2007)にも関連する記載あり。

【キーワード】
■竜宝■竜芳■盲目■疱瘡■信玄■願文

【参考資料】
◆『新編武田信玄のすべて』(柴辻俊六編 新人物往来社 2008)
◆『戦国遺文 武田氏編』第1巻(柴辻俊六・黒田基樹編 東京堂出版 2006)
◆『戦国遺文 武田氏編』第3巻月報(東京堂出版 2003)
◆『武田信玄からの手紙』(山梨県立博物館監修 山梨日日新聞社 2007)
◆「ザやまなし」268号(山梨日日新聞社 2007)
◆「山梨日日新聞」2003年7月24日23面

【調査にあたって】
武田信玄の二男・竜宝は「生まれながらの盲目」との思い込みがあり、質問を受けた時には驚いた。さらに同じ本の中でも「生まれながらの盲目」「疱瘡により失明」と説が分かれていることにはもっと驚いた。様々な資料を見てみたが、「生まれながらの盲目」あるいは「盲目」とだけ書かれているものばかりだった。別件で調査中だった「ザやまなし」269号に「素顔の武田信玄8 竜宝への愛(下)」が掲載されており、それなら前号にも竜宝に関する記事が載っているはずだと、今回の回答への手がかりがつかめた。

作成日:2009/1/31